昨日自分の中の他者を宥めるということについて書いた。そのあと考えが浮かび、これは承認欲求の問題だと思い至ったのだが、その後忘れてしまった。この忘れるということは頻繁にあることで、もし私の記憶力がもう少しよかったら、同じことを考え続ける頻度も減るのではなかろうかと思う。ひとまず覚えている限りのことを書くと、要は私がどのような私を承認できるかということだ。私は(比較ができないので断言はできないが)承認欲求が強いほうだと思っている。もっと言えば、承認欲求の塊だとさえ思っている。そして私が一番承認されたがっているのは、私からなのだ。私が私を承認できていない。これが主要な問題だという説が出てきたわけである。
そうすると、選択肢が浮かぶたびに、どの自分を選べより自分を承認できるか、という問い方をするのだ。例えば朝起きたとき、二度寝をする自分とすっと起きて準備を始める自分とを比較すれば、後者のほうがより承認できる。こうやって自分の承認を優先すれば、自分がどうしたいのか、行動から見えてくるのではないだろうか。これは「満足」という言葉で語られがちな概念ではないかと思う。自分で自分を満足させようというわけだ。どういうわけか「満足」ではしっくりこないが「承認」であればすんなり受け入れられる。この違いも考えたいところだ。
しかし今は別のことを書きたい。選択肢の問題である。先ほど出した例は朝起きたときの行動は何であれば自分をより承認できるかであった。こういう例であれば選択肢に悩むことはないが、分かりやすいもので言うご飯は何を食べるかとしたとき、その時一番承認できるのがラーメンなのに、選択肢がカレーかハンバーグしかなければ、どちらを選んでも承認は足らないことになる。選択肢の作り方を間違っているということだ。
自分からの承認を第一に考えることはいいと思う。しばらく続けてみようと思う。しかしその時、承認の選択肢が果たして合っているのか。これを考えるのは承認よりも難しい気がする。