「不可能に挑む」という言説は非常に聞こえがいい。聞こえはいいが、この発想は中々にマッチョなので、あまり好きなものではなかった。そしてもう一つ気づいたことがある。実際は前々から気づいていたことである。答えがない問いを考えることが楽しいといった人に対して、答えがない問いには答えを出さなくてもいいという安心感があると言った。これは「不可能に挑む」にも適応可能だった。不可能に挑んでいるのだから、失敗して当然。成功するわけはない。できなかったとしても自分のせいではないと言える。だから「不可能に挑む」ことはラクで楽しいのだ。
だから、「不可能に挑む」は全然マッチョな思想ではない、むしろ弱い人間の思想だともいえる。敗北があらかじめ約束された戦いは、敗北しても許される戦いだ。勝つことが求められていない。この思想、何かに有効活用できるんじゃないかと逆に思えてきた。
そもそもなぜ「不可能に挑む」を改めて考えたのか。思考のきっかけや経路は忘れがちだ。本を読むことについてか人との会話についてか……どちらかだったと思うけど。おそらく前者だったと思うから、そのつもりで続ける。そうえいば『本は読めないものだから心配するな』みたいなタイトルの本もあったな。読めない本をよく読む。読めない本を読みたいと思っている。読めない本を読むこと以外で読めることが楽しいからだ。これは何でも許される魔法だ。……「不可能に挑む」からは話がずれているな。読めない本を読むについては今は書かない。
「不可能に挑む」ことが実は楽なことなんだと気づいたときは、いやなことに気づいてしまったと思った。それは覚えている。ただ今は弱者のための思考になりえると考えている。そもそも「不可能に挑む」がマッチョだと思ったのはなぜだろう。よく考えると謎だな。スポーツや科学、自然制覇などメディアで語られがちな不可能に挑むことは、最終的に突破できるストーリーが用意されており、それを成し遂げるための前進上昇成長が含まれているからか。
私が考えている「不可能に挑む」はそういうこととは違う。その違いを明確化することで、弱者の思考へと換骨奪胎できるんじゃないか。