枝葉の伸ばし方

re_bartlby
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公開:2024/12/28

「本質」と呼ばれるものはあると思う。その「本質」は個々人に備わっていて、生涯変えられない部分として存在しているとは思う。その「本質」を「根幹」とか「魂」とかどのように呼ぶかは、私にはこだわりはないけれど、少なくとも存在はしていると思う。

ただ「本質」を見ることでその人自身が分かるかというと、それは全く話は別だろう。むしろその人が持っている「本質」をその人がどのように御しているのか、本質的ではない後天的に獲得したものの方に、私はよっぽど心惹かれる。というかそうでないと私が生きていられないのだ。私の理論は全部私が生き延びるために存在している。素晴らしいね。

私の本質は、自認としては攻撃的で破滅的だと思っている。それが私の本質だとして、そのような人間にしかなれないのだとしたらこれほど寂しいことはない。攻撃的で破滅的な人間が、それでも他人のことを思いやって慮って生きている。その部分に尊さを見出してほしい。

というような異論を、果たしてどのようにぶつけるべきだっただろうか。彼女の本質論は表面で判断しないためのものだから、本質を見てちゃんと相手のことを知ろうという論理展開なわけだ。それ自体が悪いことなわけではないけれど、やっぱり私としては、その人の内面を見て判断したいのなら、表層的な部分ではなくその人自身を知りたいのなら、彼女の言葉を借りれば「枝葉」の部分を見るべきではないだろうか。その人は自分の幹と根を持って生まれてきただろう。それはその本人にも選べなかったものだと思う。その根と幹から、どのような枝葉を伸ばしているか、その選択がその人自身の表れではないかと思う。

この本質と枝葉論は、他の人にも聞いてみたいな。あなた自身の本質は何かということと、そこからのばしている枝葉は何ですかという理論。こういう話で思い出すのは『空の境界』だ。あの作品は、人間が持っている根源を引きずり出す話が合ったけれど、あれはどうやって決着着いたのだろう。根源よりもそれの御し方の方が大事ということになっていたのだろうか。