生きづらい、かくも生きづらい世の中だ。生きづらいという言葉は好きではないので、普段はこの言葉は使わないようにしているのだが、今日はかくも生きづらいという日だ。
こういうとき、なぜ生きづらいという言葉を使いたくないのかということを書きたくなるけど、毎度毎度そうやって脱線するのも面白くない話なので今日は止めておく。
なぜ生きづらいと感じているのだろう。この生きづらさは、すくなくとも現時間的なものとしては怖いのだ。それはもちろん明日の話し合いが、どうなるのかが怖いのだ。原稿は用意しておいたのだけれど、あまり使う気はない。結局使えばよかったと後悔しそうな気もするけど、なんだか今の私は使いたくない。
どうしたいのだろう。継続して働き続けたいという思いに全くウソ偽りはないのだけれど、その先の展望も見えないというのもまた本音なのだ。でもそれは職場が悪いというより私の問題なのだ。ある程度の到達点があってそこに向かうような思考回路が持てない。一つ組み立てて、そこからまた何かを組み立てる。そういう考え方しかできないのだ。本当に。目的思考で考える訓練が足りていない。
でもこの目の前の組み立て型思考を言い訳にしているような気もするし、先にも書いた通り職場のせいではなく自分のせいなのだとしたら、どこに行ってもうまくいかない気がする。既存の枠組の中ではうまくいかないのだろうけど、自分で新たに枠組を作ろうという意思も作れる能力もない。それなら既存の枠組で生きられるように自分の鋳直すのがいいのだろうけど、それもできない。これが現時点的生きづらさの要因だ。能力がないくせに意志だけは強い、と言いたいところだけど、別に意志が強いわけではないんだよな。何も考えてないだけ、という気持ちが抜けない。
どうしたらいいのか、どうしたいのか。結局ちゃんと考えなかったな。それはとても申し訳ないと思う。でも今言えることは、働きたいということ。二チームどちらも対応できる人間となることが一つの展望だ。それは自分で考えた。働けないなら、猶予をくれよな。書きたいことは書けなかった。