写真というものがなぜ苦手なのか、その議題がさらに混迷を深める一日であった。ワークショップとして面白くないものではなかった。客観的に盛り上がっていたし、私が楽しくなかったわけではない。しかし高揚感がなかった。そう高揚感だ。楽しかったと振り返られるイベントや一日では、高揚感があるのだ(そういう意味で今日はそのあとのお喋りが楽しかったので高揚感がある)。何故なかったのか分析したいところなのだけど、今は別に書きたいことがある。言葉の問題だ。まず「議題」というのは今の私のホットワードであるし、しっくり来ている言葉でもあるから使っているが、それを入力する前は「問い」と書いていた。「問い」は違うなと思ってやめたのである。「ワークショップ」も、現実としてそうだから使った言葉だが、あまり使いたくない言葉だ。イベントもやだ。そうなると「会」とか「催し」とか、正直使いづらいし言いづらい言葉が採用される。こういった言葉をなぜ使いたくないのか。分かりやすく言うとコンサルの臭いがするというのが理由の一つである。ほかにも一文であれば理由をあげられる。キラキラしているのが嫌だとか、「意識高い」感じがするのが嫌だとか。何故それが嫌なのか、という議題にしてもいいし、なぜそれらの言葉からそういうものを読み取ってしまうのか、ということも議題にできるのだけれど、今喫緊の課題としては、別の言葉をどうするかだ。「会」も「催し」もしっくり来ていないのだから。とりあえず暫定的なものとして、と書きたいところだけど、本当に思いつかない。語学をやろうかと本気で思い始める。別の言葉であれば、何か見つかるかもしれない。それが私の語学への憧れであり、モチベーションになりうると思う。
多和田葉子は、翻訳の創造的要素として、原文では掬い取れなかったものを翻訳後の言葉が表すことを指摘している。世の中はしっくりこない言葉で溢れている。この世界を表して生きていくために、語学をやりたいと思う。やろう。