「生きてる」には、わざわざ標準統合辞書が用意されているようだ。「生きる」と同じ意味なので、同じような言葉はまとめて登録しているのだろう。だが「生きてる」と「生きる」は同じ意味だろうか? 当然違う。私は「生きてる」のだ。「生きる」わけではない。
「生きる」は主体性が感じられる。自分の意志で生きる。この生を選択し、己の足で進んでいくんだという前向きな姿勢がある。
「生きてる」は違う。これは現象である、結果であり、そこにただ在るものだ。後ろ向きな暗い生にはぴったりの言葉だ。どれだけで苦しくても、些細なことで命を終わらせたくなっても、でも生きてる。そういった辛さに打ち勝ち立ち上がっているわけではない。ただ生きてるのだ。
ならばそれは、打ちひしがれた、惨めなだけの生だろうか。そういうわけでもない。恨み辛みで一杯の生ではない。つまり、私は評価というものを否定しているのだ。いや否定しているというのは正確ではない。否定は評価だからだ。否定も肯定もしていない。評価というものに重きを置いていない。だから生を評価する気はない。暗い生だという事実だけは存在するが、それだけである。ただ在る生。それを生きてる。そして、生きていたい。
この一か月、毎日文章を書き続けた。気づいたことがいくつかある。何も考えずに書いているとあっという間に800文字が来るので、構築のしっかりとした文章を書くのは難しいということ。読点を多用しがちだということ。そして、私は生にしがみついているということ。毎日毎日、大なり小なり生について考え続けた。よっぽど生きたいのだろうと思う。どうしてこんなにも私は生きたいのだろう。そんなに良いことばかりの生ではない。どちらかというと、悪いことのほうが多かったし、これからも多いだろうと思っている(「悪い」は評価だな)。それなのにこんなにも生きたい。こんなにも生にしぶとい。どうしてこんなにも生きたいのか。それは生の意味とはまた違う問いだと思う。きれいな言葉でまとめたくないが、この問いに満足できるまでは、まだ生きようか。オチはない。自覚的に。