ペットボトルコーヒーは高速道路の味

re_bartlby
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また不在が増えた。という風に書こうと思っていたのだけれど、寂しさは感じなかった。そこにあったのは不在ではなく不足だったのかもしれない。

久しぶりにペットボトルのコーヒーを飲んだのだ。その時浮かび上がってきたことは、高速道路の運転のお供として何本もペットボトルのコーヒーを飲んできたことだった。今ではお供が必要なほど車を長距離長時間運転することはない。そういう思いが湧いてきたとき、次に思い浮かぶのは一緒に旅をしてきた人の記憶かと思ったら、意外とそうではなく、シンプルに長距離移動をしていないことへの不足感だった。一度落ち着いて、旅行してみるのもいいかもしれない。

何故めっきり旅行をしなくなったのか。一つにはお金がもったいないと感じてしまうからだ。この時、実際にお金があるかないかはあまり重要ではない。もったいないと感じてしまう、ということだけが事実であり、あらかじめそう感じていることにお金を投じることに意義を見いだせいないわけである。

そしてもう一つ、こちらが主要なものなのだが、どこに行っても不在を感じてしまうからだ。この景色を一緒に見たかった、この食事を一緒に味わいたかった、この時間を一緒に共有したかった。でもその相手はもういない。そういう不在を感じながらの旅行は空しい。そんな空しいものにお金も使いたくない。一つ目の理由の源泉がこちらである。

でも実際空しくなるのだろうか? 確かに不在は感じるかもしれない。ならいっそ、不在を乗りこなしてみるのはどうだろうか? 私が自分の承認欲求を忌避していたし、今もしている。ただそれを乗りこなそうとしている(承認できるかどうかを選択の基準とすることで、自己嫌悪を減らすのだ)。であれば、不在も乗りこなしてみてもいいのではないか。行こう。どこか旅行に。

今私は、それなりに重要な分岐点にいる気がする。私の思考回路のターミナル駅にあたるいくつか部分で、これまでとは全く逆の方向で分岐しようとしている。不在を乗りこなす。この文の重心はむしろ「乗りこなす」だな。この言葉、最近多用しているので要注意だ。