数年前までは、救われたいときはamazarasiの歌を聴いたものだ。それを聞いて救われるのもありがたいが、なによりもバロメーターとして重宝していた。今ではamazarasiを聴きたいとはあまり思わないし、聴いても救われる感覚はない。単純な嗜好の変化なのか。これが良いことか悪いことなのか、それも分からない。(良いことか悪いことか分からないというのは、私の好きな口癖だ)
それでも『逃避行』はたまに聞きたくなる、要は好きな一曲である。「死に場所を探す逃避行が その実生きる場所に変わった」というラスサビ。自分もそういう生が良いなと思う。こんな風に生きられたら……みたいな言葉はままみかけるけれど、私が望む生はそういう生だ。
私はパパゲーノというNHKの企画は、逃避行的な生き方だと思っている。死にたい。でも生きている。このパパゲーノ的な生き方を知って以来、「でも」「それでもなお」という概念が私を大なり小なり支えていると思っている。前向きにポジティブに生きている必要はない。後ろ向きで暗い生。でも生きている。
「でも」という言葉には、若干ネガティブな意味合いがあるような気がしている。近しい言葉で「だって」ということがあるが、「だってじゃない」と封殺された思い出が色濃く残っているので、それの親縁である「でも」にもネガティブな印象を持っているのだろう。でも、パパゲーノ的な生き方のおかげで、「でも」はエンパワメントされた。「でも」という生き方を、胸を張るつもりはないが恥ずかしくも思わない。
それはそれとして、パパゲーノ的な生き方を言い訳にしていないか、というのがずっと私の懸念である。その生き方を筆頭に、自分にとって都合のいい概念ばかりを集めている気がする。居心地のいい言葉だけを必死にかき集めて、逃げ道を舗装している気がする。それは私の本意ではない……とは思っている。そうやって自己弁護で塗り固められた道の行き先は、果たしてどこなのだろう。その時私は、「それでもなお」と生きられるだろうか。