何かを変えたいと思いながら、結局何もしていないし、だから何も変わっていない。そういう暮らしが数年間続いているということは、本当は私は何かを変えたいだなんて思っていないんじゃないか。
という風に考えていると、本当という言葉に引っ掛かりを覚えてそちらに(どちらに?)考えがシフトしていくのがいつもの流れなのだけれど、今日は「本当に」変えたいと思っていない、という前提で、その要因とそれでも浮かんでくる「変えたい」という思いについて考えたい。
まず私が本当は変えたいとは思っていないとして、その理由は今の生活課ほどほどに安定しているからだろう。(変えたいと思っている要素である)買い食いをして生活が困ることはない。毎週末どこかしらに何かしら遊びに行くことに困ることはない。この安定感が、真に迫って変えたいと思わないでいられる要因だろう。
もう一つが、これは働き始めてからずっと思っていることなのだが、普通が分からないからである。普通が分からないのはもうずっと前からなのだけれど、この場合分からない普通は、普通一般的な正社員的な働き方をしている人は、どれくらい稼いでいるのだろう、どれくらい貯蓄しているのだろう、どれ蔵遊んでいるのだろう、何をして遊んでいるんだろう、どうやって暮らしているんだろう、今の暮らしに満足しているんだろうか、そういった普通の暮らしがぜーんぜん分からないのだ。変えたいと思うような不満点は(?)あるけれど自分の立ち位置が相対化できていないので、変わる先が見通せない。これが本当に変わりたいとは思えない大きな理由だ。
それでは、それでも度々「変えたい」という思いが湧いてくるのはなぜだろうか。抽象的には、今の自分を承認できないからだが、もっと具体的なところを言うと、まずはこの安定性が失われる可能性があるということだ。それは短期的な部分もそうだし、長期的にもそう。あまり自壊に続くような書き方はしたくないのだけれど(忘れるし)、今回は無理だ。何故変えたいと思うのか、これはイレギュラーに次回に続く。