笑い、笑っている自分というのが重要なキーワードな気がしている。何に対してどう笑っているか。それが私の核となる部分を顕現するような気がする。
例えば、先日寝起きに足が攣った。よくあることなので、攣った部分を伸ばすという方法で攣りをいち早く収めようとした。そうすると攣りが足首に移動してきたのである。初めての体験で大笑いしてしまったのだが、こういう大笑いをしている最中は疑惑も生じないのだと後から気づいたのだ。また楽しいだけの笑いを考えているわけではない。私は自分自身のことを、よく鼻で嗤っている。生活が嗤笑で埋もれている。それはその時に浮んでいる自分の人格に対する嘲笑だ。そう笑っている自分は、自分の核となっている人格に近い気がしている。
笑いと人格について先日思いついたことを書いてみたのだが、意外と文字数が少なかった。書き始めるとすぐに800文字まで書けることも多いけど、書きたいとあらかじめ考えている「最近思ったこと」は、思ったよりも文字数が少ない。これはTwitterの弊害ではないだろうか。140字で何かを主張することになると、頭の中で考えることも140字単位になってくる。文体が支配されているのだ。Twitterにはなるべく書かないと決めているのだが、その方針は間違っていないと思う。
今、私のタイムラインはガザについてのtweetが目立つ。何かを言いたくなるし、言ったほうが良いんだろうとは思っているけど、どうしても指が動かない。その理由も考えてきているつもりだったけど、今でも分からないままだ。スッキリしたくない、という表向きの理由から、間違ったことを言って恥をかきたくないという裏向きの理由まであるけれど、とにかくTwitterで発言することが、自分の中でガザや社会のためではないパフォーマンスにしか思えないのだ。自分のためのパフォーマンス、自己満足とはまた違う、自分を満足させるためだけの演技。そういう風に思える。それよりは面と向かって人と話す。だから、昨日勉強会に行くと言えばよかったな。尻込みしたとしても。