「結局」という言葉を使いがちだということを以前書いた。それ自体は私自身が感じる私のリアルなので否定はしないし、あまり使わないように気を付けていきたいと持っているのも事実である。しかし、なぜ使わないほうが方がいいのか、というところまでは考えていなかった。そんな折、毎回楽しみにいているラジオから流れてくる声を聴いて思い至った。「結局」とは、私が忌み嫌っている表現である「例外」に近しいものなのだ。
私が「結局」という言葉でまとめてしまうときは、何らかの悩み事や苦しみの要因がありそれについて原因を結論付けるために使用している。だが、私が抱えている悩むや苦しみは「結局」という言葉で簡単に片づけられるものでも、片付けていいものでもないはずだ。「悩み事にはスケールがある」「そのスケールをそのままの大きさで理解したい」これが今日聞こえてきたラジオで感銘を受けた表現である。「結局」という言葉は、悩みや苦しみの文脈を無視して、一つの分かりやすい(というよりは抱えやすい)悩みに鋳直してしまう言葉ではないだろうか。もちろんそういった対応が必要な時だってあるだろう。だが、同じ悩みを何度も何度も繰り返して、そのたびに「結局」で片付けてしまし、そのことに抵抗感も覚えだしてきているのは、「結局」で鋳直された悩みに納得がいっていないからだろう。抱えているものを鋳直さずに、そのままの大きさで理解するところからもう一度始めてみたい。
さっきも書いた通り「結局」は「例外」という言葉と、使い方という点で似ている。私にとって例外とは、本来そこに数多あるはずの人生を鋳直して、たった2文字に押し付ける乱暴な言葉である。そんな蛇蝎の如く嫌っている表現を、私は自分の悩みに対してしまっていたわけで、これは自分の悩みに対して失礼だろう。
いつまで悩んでいるんだろうか、とそのことに悩むことも多い日々だが、そもそも抱えているつもりの悩みが歪んでしまっている可能性も高いのだ。自分を語り直すように、悩みを語り直すこと。鋳直すのではなくね。