葬送のカーネーション

re_bartlby
·

『葬列のカーネーション』を見てきた。感想というものが似合わない映画である。言うことが見当たらないということでもあるわけだが、何か感じたりとかそういう映画ではない気がする。もちろんこの映画を起点にして考えられることはたくさんあるけれど。折角なのでラストシーンについて考えてみようかと思う。ただその前に、実はフェンスはよじ登っていなんじゃなかろうかという気がしている。あの場面はイメージや心象心理のようなもので、作品上の現実ではないのではないか。というのも、現実と考えたら有刺鉄線が張り巡らされたあのフェンスを悠々と登れる気がしないし、あそこは国境?とはまた別なのだろうが、それにしたって紛争地帯の現実のフェンスであれば、何らかの警備があるはずだろう。そういう理由から、最後の場面は現実ではないと思っている。ではどこから現実から離れているのだろうか。個人的には牛乳が入ったグラスが割れたシーンが転換点なのではないかと思っている。ここで埋めると言われるのと同時の場面であり、印象深いポイントだ。単純に考えて現実への望みや願いといったものが砕け、心象世界に切り替わった感じがする。ムサが唯々諾々と埋葬に従っているのも違和感があるし、埋葬の場面でイラストやカーネーションが出てくるのも唐突に思えた。あの世界が現実でなければ理解できるというものである。ではあればどちらの心象心理なのだろうか。ラストシーンを思えばムサかもしれないが、主体性を持っていたのはハリメに思える。双方の、というのは何かおかしい気がする。フェンスを上るまではハリメで、結婚式の場面はムサとも考えられるか。ただムサはずっと困惑している雰囲気があったし場面も延々とエンドレスに移り変わっていくように見えた点が気になる。それこそがムサの無常が表れているともとれるが、あまりにも救いがなさすぎやしないか。どちらの心象心理なのか。ここで結論付けておくのは止めておきたい。どちらにしたって、根拠を持てないからである。他の人の感想も聞きたい。