約4年ぶり? くらいにホワイトデーのお返しを買った。特にドキドキはしない。義務感である。義務感でなければ、今日買うことはなかったろう。なぜならば妥協な選択になったからだ。本来であれば、個人店である喫茶店でギフトセットを買いたかった。ただ、会う日までの間に寄れる時間がなかったため、既製品を余儀なくされた。妥協である。相手のことを思った行動であれば、もう数日遅れても妥協の選択はしなかったのではなかろうか。我ながら、酷い言い草だ。贈り物のお返しを妥協だの義務感だの、何様なんだろう。
もしかしたら私は、求められるよりも求める、愛されるよりも愛するタイプの人間なのかもしれない。グイグイ来られるよりはグイグイ行きたい。でも行ったら行ったで、相手はなぜ来てくれないんだろうと同じ温度を求めてしまうからやっぱり違うな。大事なのはその同じ温度ということだろう。バレンタインにくれた人とは、申し訳ない(とは言っているだけで思ってはいない)けど温度が違う。それは思いの温度もそうだけど、(勝手に相手の思いを測って、これも何様だという感じだ)生き方に対する温度だ。どんどん失礼な言葉遣いになってくるな。
ただそれを感じるというのがリアルなのだ。使う単語の節々に、生き方の温度の違いを感じる。私ならその表現をしない、その表現では、この形容しがたい、形容を拒否する世界を表現できない。相手の言葉からそれを感じてしまうと、あまり長く会話しようと思えない。ちなみに、形容を拒否するのは世界と私、両方だ。
相手と会話したいと思えるポイントはここなのかもしれない。ここってどこだろうか。表現、温度、世界に向き合う姿勢。トーンポリシングにならずに誠実さを求めること……うーんうまく言えない。でも明らかに、継続して話し続けたいと思う人と、そうじゃない人との違いがあり、その端緒を書きながら感じた気がするのだ。表現に対する温度。ここをもっと穴を掘っていきたい。穴を掘れば土台が崩れ、自壊する恐れがある。その期待が、この表現にはある。