昨日書いた文章のタイトルの語尾は「くれ」だった。そして私の口癖は「許してくれ」である。この依頼と命令が混じったような語尾を、内心でよく使ってしまう。考えてみるに、私にとって「くれ」は畢竟の言葉なのだ。ある程度考え尽くした。これ以上はしばらく新しい道は見つかりそうない。そうい時に出てくるのが「くれ」なのである。私自身は承認しており、その承認を求めているつもりはあまりなく事後承諾の要素が含まれている。
もう一つは「投げやり感」だろうか。「許してほしい」や「許してくれないか」でもなく、もしくは「許せ」といったはっきりとした命令でもない。「もういいでしょう」という投げっぱなしな言葉なのである。
だが「許してくれ」(に限らず語尾が「くれ」の言葉)は、あまり現実の生活上では使っていない。言葉として荒いし、基本的に丁寧語だからだということもあるが、あまり人前では出したくない態度なのかもしれない。「許してくれと思っているんです」という言い方はそれなりにしている自覚があるのだが。やっぱり「許してくれ」ははっきり顕在化されるものではなく、そういう自分がいるんですよという表明化が強い気がするな。
私の中では繋がっている話なのだが……と書いて続けようと思ったのだが、それより前に、この切り出し方も多用しがちなことが気になる。でもうまく説明はできないな。私の中では明確に文脈上にある考えなのだけれど、それが相手の文脈にも沿っているの分からない、というのがこの留保のシンプルな説明だけれど、それだけでもない気がする。相手の話のかなり限定的な欠片を拾って言葉をつづけることも多いからだろうか。これからも人と話すときは、私の中では繋がっているのだけれど……という言い回しはするだろうから、その時に話を止めてみるのもありか。こうやって私は切り出しがちなんですけど、あなたからして繋がっていましたか? と聞いてみたい。方向転換なんてものじゃない、異次元ホールな会話に付き合ってくれ。