レイシズムやナショナリズムについての研究書・解説書の類の本を読んでいると空しくなるし、難しくなる。レイシストやナショナリストの気持ちが分かるというか、理解は及ぶ、まあそういう志向に至る筋道に思いをはせることはできわな、という気分になるのだ。悪いことではない、と思えるかもしれないけど、私としてはやっぱり空しくなるというのが近い。何がどう空しいのだろう。
一つにはどうしたらいいのか分からなくなる、というのがある。これまでだって分かっていたわけではないけど、より分からなくなってくるというか、少なくとも揶揄して小馬鹿にしていただけの時期のほうがよっぽど楽だったのは間違いない。向き合い方が分かっているからね。今は向き合い方が分からなくなってしまった。
そうそれだ。向き合い方が分からない。思考の筋道のトレースはある程度できるにしても、決定的に何かが違う、その発想には至れない、という人や思想を前にした時の向き合い方を私は知らない。実際にまともに向き合っていない。それが空しいのだ。それというのは向き合えないことや向き合っていないことだけではない。とりあえず本だけ読んで分かったような気になって、何もできずに眼を逸らしていることが空しいのだ。
どこかで(どこで?)一度ちゃんと話してみたい。差別主義者は自分を差別主義だとは認めないだろうけど、自国第一主義者であれば、それを自認したうえで主張も聞かせてくれるのではないだろうか。それを聞いてみたい。私がそれを聞いたうえで転向することは、ほぼ確実にないがそれでも聞いてみたい。徒労に終わるのを承知したうえで話してくれる人はいるだろうか。
思えばマスターとの会話はややそれに近いな。お互い、お互いの意見を聞き入れることは最早ないと分かったうえで、討論にも議論にも、対話にもならない伴走をしている。伴走なんてポエティーに言ったけど、要は平行線だ。あれは空しかった。また空しいに戻ってしまった。決定的に考えが違う人と話すことは、やはり空しいになるのか。でも何が「決定的」にさせるんだろう?