「相手に好かれようとしてしまう」「相手によって対応を変えてしまう」。最近短期集中的に数人から聞くことの多かった話だ。反面私は、いろんな私が出てくることを楽しんでいた。会う人、相対している人によって、全く違う自分が出てくる。自分の引き出しはこんなにあるのかと、自分を褒めてもいいと思える時もある。それは、私が今までずっと一人の人とだけ世界を作っていたからだった。家族も、友達も、恋人も、その他関係性と呼べるもの全てをその人に委ねていた。ワンストップセンターだった。だから、自分も一人しかいなかった。ある意味では完成された世界といえるのかもしれない。でもその人はいなくなった。その人がいなくなったあの時期、振り返れば、どう生きたらいいのか分からなかったのだろう。どのような自分で生きていけばいいのか。生き方さえ委ねてしまっていた。そして今もそれは分かっていない。
この辺りまで考えて、ふと思いついた。ずっとその人がいなくなったことを引きずっていると考えていた。その人の存在を引きずっていると考えていたのだが、実際に引きずっているのは、その人と一緒にいたときの自分ではないか?一緒にいる相手によって違う自分が出てくる。私は、いまだにその人と一緒にいたときの自分が忘れられず、あの時の自分を取り戻したいのではないだろうか。
これは大発見である。今までことあるごとにその人を思い出し、いつまでも未練を引きずっている自分に自己嫌悪が発生していたのだが、未練の先が自分であれば、何か違ってくる。……違ってくるのかな? ただ言えることは、その人の代わりはいない、その人の代わりを求めても絶対に不可能なのと同じように、その人といるときの自分の代わりを求めても、同じ自分は絶対にいないということだ。
だから、どうすればいいのだろう? これが「足るを知る」ということだろうか。あの人と一緒の時と自分とは別人の、しかし満足して生きていける自分を見つけないといけない。
初めて、事前に書くことを考えた内容だった。いつもの思考しながら書くよりも難しかった。