語り直せ、己を

re_bartlby
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救いのない生、ネガティブな生、暗い生……。そういった生の在り方を考え始めたのいつごろからだろうか。その時期は判然としないが、言語化できたのがいつ頃かははっきりとわかる。2021年の年末、『石原吉郎詩文集』を読んで以来だ。その暗さはそのままで抱えなければならない、暗さのままで。という言葉を読んでから、私は自分の生の在り方を、暗い生と定めて救われないまま生きようと決めた。その時は、それの苦しさを予想はしても分からないままであったが、予想通り予想以上にしんどい生き方だと思う。救いを否定している以上当然のことだが、私は救われることができない。一瞬一瞬の煌めきのような何かに救われて、寸前のところで生きるための何かを掴み取ることに成功しているが、綱渡りというべきか、しんどい状態苦しい状態がデフォルトになっている。あまりにもしんどい。

しかしそもそもの前提として、しんどさをどうにかしようとするのを止めようといったところだったはずだ。生きるにはしんどすぎる。しかし死ぬわけ。にはいかない。その生と死の隘路の席に見出した方策が、しんどさと生きるという生き方だった。それが救われることの否定に繋がっていった。どうしてこのしんどさを、生きることの肯定につなげればならないのか。なぜすべてをポジティブな生き方に、前向きなとらえ方に還元しなければならないのか。それが気に食わなかった。しんどさはある。そのしんどさがこそが自分の生だ。それを否定することはできない。そうやって抱えた生き方に今舞い戻っている。いや、戻ってきたわけではなく、ずっとその生き方をしてきたけど前景化されていなかったものが、状況の変化によって浮かび上がってきたのかもしれない。

この暗い生、救われない生を私は表現したい。この時、私は記録に残る表現を否定してきて、身体に懸けたわけだけれど、言葉での表現も必要かもしれないと思ってきている。必要かもしれない、そんな言葉でごまかすのはよくない。表現したいと思っている、言葉で。自分の心情を否定してでも、言葉で表現したい。良いではないかと書いていて思った。否定こそが私の生き方のはずだ。救われたくないというのは、まさに否定の生き方だからだ。自分の否定した表現によって、自分を生き方を表現する。したい。