今日も高揚感を覚えなかった。最後に高揚したイベントはどれだっただろうとか考えてしまう。そういう時に、日記なりなんなりの記録を残しておいたほうがいいのだろう(これは厳密にはそれではないので)。
それはそれとして、高揚感が起きにくくなっていることは、別に問題ではないのだけれどちょっと考えないといけないかもしれない。とりあえずしばらく距離は置いてみるつもりだけれど。なせ高揚感が起きないのか、言い換えると、これまで高揚感が起きていた時はどういったときだっただろうか。違う主催のイベントを持ち出してしまうが、自覚的にあるのは2022年の冬の焚火だろう。その時は高揚感というワードがなかったためそういう風には感じていなかったが、今思い返すとあれはまさに高揚感の高まりだった。入り口のほうに話を戻すと、パッと思い出せるのはシェアする会だ。焚火とシェアには、共通点はあまり思いつかない。前者と後者では別の理由で高揚感が発生したと考えるのが妥当だと思う。
前者のほうはハッキリしている。まだ奈良にきて間もなく知り合いも少ない中で、そして自分の生き方そのものに対しての承認が足りない中で、自分の選択は間違ってなかったと思えた機会、これからも自分を背負っていけると思えた機会だからだ。そうやって自分を間違っていなかったと思えてしまうことには、様々な留保(鎖)をつけたいところだけど、本題ではないので飛ばしておく。
後者のほうは人数の少なさが起因していると思う。正直これだよ。最近は人数が多すぎる。私は10人を超えると一気に減衰してしまう。やる気や没入感が。それがないと、高揚しようにもできないのではないか。少なくとも前のめりに参加をしなければ、それ相応のリターンは望めないだろう。
どうして人数が多いと前のめりになれないのだろう。周りの人の目が気になる? それはないと言えるほどそれはない。ではなぜか。いま直ぐに思いつく原因はない。抽象的な表現だが、何か薄まってしまうのだ。いや違うかな。どこに行っても異端に感じる。この思い上がりが発動している気がする。では異端だとなぜ冷める?