目的意識を持つのが苦手だ。それはゴールを持つことが苦手だからだと考えている。ゴールがあれば過程も結果もすべて決まってしまう気がするから。それよりも、どこに行くか分からずにふらふらしているほうが好きだ。とここまで書いて思ったけど、目的意識を持つことの苦手さに繋がっていない気がする。というのも、ゴールにたどり着いて、そこからまたどうすれば考えればいいのではないか、ゴールからゴールへ適当にふらふらしていけば、ゴールがあってもふらふらできるのではないか、と考えたわけだ。先日読んだ『未来のアートと倫理ために』という本で、完成形を求めず作り続ける、というはなしがあり、生き方自体をそうしたいと思ったものだが、ゴールがあってもそれができるのではないだろうか。
これはゴールという言葉が持つイメージによるものだろう。どうしてもそこで終わりという印象があるし、やっぱり私としてもゴールの先にまた別のゴールがあるんだよ、みたいないい方はしたくない。『3月のライオン』で極限まで考えたけどまだ扉があった、という話があり、ああいうのは好きなのだけれど、極限はゴールとは別だから、やっぱり私は目的意識を持つのが苦手だ。
でも今の世の中は、目的意識のない行動は評価されない。何故なのだろう。とうか、そもそも前提をひっくり返すが目的意識がないわけではない。私なりの目的があって行っていることが、そうだとはみなされていないのだ。いや目的ではなく理由と呼ぶべきか。こうなってくると言葉の問題になるし、私は理由も嫌いなわけだが……。
目的でも理由でも今はいいとしよう。どうしてこう、何かのため、という意識が持てないのだろう。仮に結論付けると、ただ在るという在り方に反するからだろうか。目的理由は、未来を想定する考え方だ。しかし私は今しか見るつもりはない。今目の前に本があるから読む、面白いからとか学びになるからとかは後から、それこそ未来からやってくるもので、ただ読む。そう目的も理由もあとからやってくるのだ。それを今持てって言われても難しい。まあ言われているのはこういう次元の話じゃないと思うけどね。