SNSはすぐに炎上する。炎上という言葉は嫌いなので言い換えるが、すぐに批判される。予想外の批判も起きる。そういう事態が毎日のように起きている。それゆえだろうか。いつ頃からか「個人の感想」であることを明記しないことへの正当化が目に付くようになった。自分は自分の意見を述べているだけである。それをわざわざ表明しないといけないのか? すべてに保険をかけて発言しないといけないのか? という反感である。であるというか、たぶんそうだと思っている。私もそういう風に思っていた時期もあった。ただ今の私は、発言は慎重に吟味を重ね、保険を何重にも欠けるべきだと思っている。それで言葉がどれほど冗長になろうとも、意図せずだれかを傷付け自分が傷付くよりはましであると思っている。
おそらく誰だってわかっていることだと思う。「○○は□□だ」というとき、その言葉には「(ただし例外あり)」という言葉が隠れていることを。それを暗黙の了解として、意見の表明、会話、討論は行われているものなのだろう。それが分かっているうえでなおも不満なのだ。いつもいつも、いつまでも「例外」で括られてしまう人のことは、誰が語ってくれるのだろう。例外というたった2文字で納められる世界の中に、無数の人が、生が、人生が、あるはずだ。そういう風に思えてから私は「例外」でまとめることはしないようにしているし、どんな会話の中でも「自分は」ということを表明している。他の人のことは分からない、あくまでも自分の話だということを。
これは保険をかけているだけだとみられているのかもしれない。ただ、いざ振り返って考えてみると、私には保険をかけているつもりも自己保身をしているつもりもなくなっている。自然と身についているからだともいえるけど、そうやって例外にもなるべく言葉を広げようとした結果、浮かんできた考えや拾えた言葉あることを、経験上知っているからではないだろうか(こういう時具体例を出せたらいいのだが……)。つまり、言葉は費やせば費やすほど開拓できるのだ。例外だなんて言葉で片付ければもったいない。