私はコミュニケーションができないと言われた。言われたときは、やはり落ち込んだ。今も気にしていないと言えばウソになる。小さな棘として残っている(小さいんかいと思うが)。ただこれを知人に相談したところ、その人から叱られてしまった。知り合いが誰もいない土地に移り住んできた人間が、人と関係性を作って一年以上読書会を続けられるか? その読書会についてのトークをお願いされるか? 常連というだけで、知り合いの本屋さんからZINEの寄稿を依頼されるか? コミュニケーションができないという評価はそれはそれで事実だろうけど、それで君のすべてが決まるわけではない。視野が狭い。とそんな感じで叱られた。私としては、とても納得できる話でかなり救われたものである。
ということを、コミュニケーションが下手だという知人の話を聞いて思い出した。その人は自分は近い距離でしか人と付き合えない。それがコミュニケーションが上手いということだと考えていたが、実際はそうではなかった。距離感をつかめる人がコミュニケーションが上手いということだと後から気づいた。と言っていた。それを聞いたときは納得したものだが、よくよく考えてみると、納得できないものがある。距離感を自在に操れることをコミュニケーションが上手いと評価する人は当然いるだろう。しかし近寄れることを上手いととる人もいるし、離れている人が上手いということもあるだろう。つまりここの評価も相対的なのだ。
ただ私はこれを用いて、だからあなたはコミュニケーションが下手ではないんだよと言いたいわけではない。その人が、自分自身が下手だと認識していることが重要だからだ。私が言いたいことは、自分から自分への評価も、相対的な評価の一つであり、それを特に重要視する理由は存在しないということだ。あなたが自分のことを否定的に考えることを、止める気もしないし止めるつもりもない。ただ、あくまでもあなたは自分がコミュニケーションが下手だと「思っている」というだけだ。それはあなたが「コミュニケーションが下手だ」というわけではない。評価は自分を規定しない。評価は自分の存在を定義付けない。あなたはあなたでしかない。そういうことを言いたい。とりあえずここまで。