「変えたい」は他動詞だ。「変わりたい」なら自動詞だ。私は昨日まで「変えたい」と言ってきた。他動詞で話してきた。ということは、まず私がいて、私の中に「変えたい」の目的語となる私がいるということだろう。その目的語の私は、どうやら自分から変わる気はないらしい。他人任せとは良いご身分だ。と思ったが、別にその私は変わりたいとは思っていないのかもしれない。そいつが自発的に変わる気がないから、仕方なく別の私が変えようとしている。そういう風にも考えられるだろう。その私が自分から変わりたいと思ってくれればらくなのだが……などとよく分からないことを書き連ねているが、当然内心では「変わりたい」と思うこともよくあるわけで、ここで「変えたい」と書くことに厳密な違いはないのかもしれない。ただそこの表現の細部は注意したい点でもある。
そもそも変えたいと思っている私に対してもっと懐疑的な目を向けるべきではないか……と思ったが、結構その目は向けているな。「本当に」変えたいと思っているのか? みたいな問いは頻繁に投げかけている。この変えたい人格の私は、まずは社会規範を内面化した私、もしくは内面化された社会規範そのものといえるだろう。その社会規範に沿わない自分を変えようとしている。なかなかに乱暴な話だと思う。であれば、変えたい対象の私は、守るべきそんざいなのだろうか。あまりそうとは思えない。変えたい私も、変えられようとしている私もどちらも庇護対象とは思えない。じゃあ何なんだよ。変えたい自分も変えられる私もどっちも大切にしようとは思っていない。その思っていない私は変えられる対象の私の自己防衛ではないか? やっぱり書かざるを得ないが、こんな形而上のことばかり考えてなんになる、とも思う。飛躍しているようだが、どうせ死ぬんだから、もっとこの精神を押し出したい。癖のようにそう思うくせに、まるでその思考通りには動けない。思考の癖が、行動の癖になればいいのに。