映画『リトルガール』を見てきた。内容としては、対象がたまたまトランスジェンダーだったというだけで、家族のドキュメンタリーであった。家族というものが苦手なので、あまり好印象は持てなかった。退屈だったりつまらなかったりしたわけではないけど、ずっと冷めた気配で見ていたのはそれが原因か。
内容云々ではないけど、尾花で見る映画はやっぱり苦手だった。前口上が要らない。要らなさすぎる。あれには需要があるんだろうか。自己満足でやっているとしか思えない。上映自体に自己満足な部分が多いのだろうから、自己満足で前口上して何が問題ある、と言われれば言い返す余地はないのだけれど、勘弁してほしい。だから次回の映画は見に行くつもりだけど、ギリギリで滑り込んで前口上をなるべく聞かないようにできないかな。前の席に座ることはできなくなるけど。背に腹は代えられない。前に座れないよりも、前口上を聞くほうがよっぽど嫌なのだ。
ここまでどんだけ嫌がってるねん、という感じでもある。なぜそんなに嫌かと言えば、こちらは必死になって物語の概要や前情報を摂取しないようにしているのにも関わらず、無遠慮にもネタバレに近いことまで言ってくるからだ。物語を見る気分が萎える。これからこういう物語が始まる、続くんだなと分かりながら見るのは、楽しさ半減だと思うんだ。
いつからこういう考えになったのだろうか。昔は、例えば小説であれば裏表紙のあらすじでどんな物語か確認してから読むのが普通だった。今となっては、(そもそも文庫を読むことが少なくなったけど)読み終わってから裏表紙のあらすじを確認してまとめられ方を楽しむ始末である。印象として残っているのは『ゴリオ爺さん』である。あらすじで全て書いてしまっている。そこまで豪気なものは今まで『ゴリオ爺さん』だけだった。だからそれまでにあらすじを読まなくなったきっかけがあるはずなんだけど、覚えていない。
本の楽しみ方もずいぶん変わったな、今後も自分がどう変化していくか楽しみである……みたいな締め方がきれいではあるけれど、きれいな締めは求めていないし、かといって納得できる締めも思いつかなかったから、これが締め。