同じことを考え続ける。同じ結末になったとしても、また同じことを考え続ける。その結果開かれる扉があったりなかったりする。『口の立つやつが勝ってことでいいのか』を考え続けた。何が気にくわないのか。考え続けたのはそれだけではない。『口の立つ』系統の本がなぜ気に食わないのか。あなたたちはもう言葉を持っているじゃないか、表現できる立場じゃないか。そうやってやっかみをつけたくなる理由。今日もそれを考えた。その結果、自分のやりたいことが少しだけ見えてきた。それは救われない生を救うということである。これについては、これまで何度も考え続けてきたことだ。私にとっては何の目新しい概念ではない(目新しかったら悪いor良いという話ではないのだけれど)。ただ、『口の立つ』からここに波及できたということが重要なのである。私からすれば『口の立つ』には救われない生が描かれていないし、救われない生を救う姿勢を示していない。『口の立つ』で描かれていることによって救われる人にしか対象にしていない。この本で救われない生にまで射程を伸ばしてほしいし、そうではないことが何か癪に障るのだ(ここはもっと穴を掘れるのだけれど、収拾がつかなくなるのでいったん保留)。
救われない生を救う、そんな本もやはりある。『ヴィータ』はまさにそれだった。私があの本にあれほど感銘を受けたのは、専門的な部分はほとんど理解できていないにもかかわらず感動を覚えたのは救われない生を救うという意思があったからだ。救われない生を救うためには、誰かがそれを語る必要が、やはりあるのだと思う(現時点での私の認識)。しかし、誰かが何かを語るとき、それは必ず簒奪になる。結果語られた生は形を変え、救われるはずだった生は放置されるかもしれない。しかしあの本は簒奪性も薄かった。その理由はここで書ききれないし、分析も済んでいないからまた書くとして、私もそういうことがしたい。それはやはり書くこと、語ることなのだが、その方法を見つけるのだ。終始抽象的。具体性を語るには文字数が足りないな。思考も足りていないけど。