何事も経験だ。という考え方はあまり好かない。何故かといえば、なんにでも当てはまってしまうからだ。何事も経験、それはその通りである。反駁の余地はない。あらゆる経験が、本人の糧になる可能性を秘めている。そんな風にすべての場面に適応できる言葉は、ある種何も言っていないのと同じであり、私にとっては実感がない。実感がないものは好まないので、何事も経験、という考え方も好かないというわけだ。
これは他の言説にも当てはまる。例えば「役に立つ/役に立たない」論争だ。何かが役に立つかどうかは、いくらでも挙げることができる。人間が未来を予知できない以上、100パーセント役に立たないと断ずることができるものはなく、それゆえにあらゆるものは役に立つ可能性を秘めているのだ。でもそれは何だって言えてしまう、あらゆることに適応できる言葉であり、つまりは実感がない。私が「役に立つ/役に立たない」論争に乗っかる気がないのは、どちらにしろ空虚だからである。それはそれとして、その土俵が気に食わないというのも当然あるのだが。「役に立つ」土俵そのものをひっくり返すか、最低限乗らないようにしたい。面白くないから。
「役に立つ」土俵の何が面白くないのだろうか? いざ考えてみると少しわからないような気もしてくる。まず一つは、前述のとおり人間は未来を予知できないのにもかかわらず役に立つか立たないかを断じている点、つまりは人間に懸けていない点、それが面白くないと思っているのは間違いない。二つ目が、現実として役に立つ/立たないがあるとして、それは一要素でしかないはずなのに、それですべてが決まってしまう。そういう単一的な世界観が面白くないのかもしれない。しかも役に立つ/立たない基準も単一だ。
人間の可能性に懸けていること、複数的で複層的あること。逆説的には、この2点が私が面白いと思うことなんだろう。私は私の可能性に懸けているだろうか。あまり、問いて来なかった問いだ。私に懸けたい想いはある。