本は読めなくても楽しい。文字を読んで、文字が自分の中で回っていく感覚。これがあれば、本は読めなくても楽しい。
ということは、人間関係にも理解は不要なんだと思う。他者と関わる。関わっている他者が、自分の中で踊り舞う。一緒に踊る。それによって私も他者も変容する。それがあまりにも楽しい。その際、理解は不要だ。お互い踊ればいい。
踊る、というものが私の中で重大ワードになって数年経つが、未だに踊りをちゃんと習ったことはない。踊りというものへの理解を深めるためにも、何らかの踊りを習いたいものだ。習いたいものが多すぎる……というほどでもないかもしれない。踊りと音楽と語学。ざっくりまとめるとこの3つだけとも言える。特に前者の2つは共通するものがある。身体についてだ。身体論を頭の中でばっかり考えているから、もっと実践したい。
身体論に私の中では繋がっているのだが、求められているかそうではないか、というのは肌感覚でよく分かる。今までかかわってきた人の数が少なかったので、この肌感覚も知らなかったのだが、そういう(どういう?)関係性の人ができたおかげで、今求められているなという感覚が少しわかるようになったと思っている。自惚れかもしれないけど。
こういった肌感覚を、やはり私は言葉にしていきたい。言葉にすることで自分が変容するからであり、それがまた楽しいからだ。経験があり思索があり、それがテーゼとなりまとまる。そのテーゼまでの道のりは意外と長く、こんがらがっており、複雑で豊潤なのだが、その道筋を精緻に言語化できることは滅多になく、飛び地的にテーゼにたどり着くことが関の山だ。だからこそ、飛び地飛び地の間に降り注いでくる言葉がとても楽しい。その言葉によって現れてくるものもあるし、壊れていく既存の飛び地もある。それによって自分が変わる、テーゼもその前提だった経験の意味合いも変わる。自分が語り直される。何かに触れるということはそうやって自分を鋳直すことなんだ。いやこの場合は鋳直すより、壊れたDNAが自己修復するがエラーを起こしてしまう、という比喩のほうが近いかもしれない。自分を壊していけ。