自分が人間として欠陥品であるという意識が拭えない。このことに自覚的になったのは高校生の頃だったことは覚えている。過剰な自意識、歪んだナルシズムから抜け出せないだけと自分を鼻で嗤うことは簡単だけど、それをしたとことで欠陥品意識がなくなるわけでない。短く見積もって10年の付き合いなのだ。
具体的なエピソードを提示して、自分のことをなぜ欠陥品だと認識しているのかを説明することはできる。そして、恐らくだが、説明した場合、そういうことは似たり寄ったり多かれ少なかれ誰にだってあることだよ、と言われるのだと思っている。思っているのだけれど信じ切れていない。だから核心的な部分は人に隠している。抽象的な話だけで逃げている。抽象性のベールで己を包んでいる。
人に自分のことを話さず、相手のことを聞いてから自分を開示したい。怖いのだ、自分だけがおかしいんじゃないかという恐怖が無くならない。相手のことを知りたいのは、最終的に自分のことを知りたいからだ、というのも、高校生のころから何度も考えてきたことである。
そのため、あなたの考えは悲しいと言われたことは、少しだけ嬉しかった。少しだけ嬉しいというのは違うな。ホッとした……ということとも違う。なるべくそのまま言語化すると、だから言ったでしょ、という気持ちだった。私はクズだと、しょうもない、禄でもない、どうしようもないの3ない人間だと、言っていたではないかと。
私が自分のことを欠陥品だと考えているのは、突き詰めればそこにある。つまり自分のことだけしか考えていない、他人のことを考えていない。演劇ワークショップによっても、そこが浮き彫りになったような気がする。他人に興味がないという指摘も的を射ている。相手は私にとってただの壁。私がしているのはただの壁当て。それが人間だとやや都合がいいから壁ではなく人間の相手をしているのだという気がする。
そして、これもいつものパターンで面白みがないのだが、このことに悩んでいるのか、変えようとしているのか分からない。自分は常に異端を感じているが、本当に異端なのか。誰か違うと証明してくれ。