紅子さんとのコラボアートワーク
こちらは紅子さんが私の絵と紅子さんご自身のセルフポートレートを掛け合わせてくださったもの
こちらにもお載せします
自分で言うのもなんだけどかっこいい。
自分の絵が他人のフィルターを介すとこんな風になるんだなあと。
元の絵はこちら
マリアだったかな 今調べたら多分天使の石像だったと思う。
この神聖な表情を描きたくて。2時間くらいで描いたのかな 去年の春
ピンクと水色が好きなんです
可愛いのに憂いがあって。
可愛いだけなんてクソだよね。
いつも絵には "人間には陰と陽があって当たり前なんじゃボケ "という気持ちをありったけこめています
紅子さんいわく「視覚的なものを優先したように見えますが、苦しみや悲しみの涙の中で、新たに強く変身する女の姿を表現している」そう。
この石像の天使の絵からインスピレーションを得て撮影していただいたとのことで 感謝感謝です
人間は自分の中にないものは反応しないらしい。脳みそがそうなってると。
だから何かがいいな、好きだなと思ったら かつて脳が無意識のうちに反応している、あるいは見たことがあるもの らしい。
他人は自分をうつす鏡像なので 他人の作品を見た時に何をどう感じるかはその人をうつす指標になる。つまり自分の中にしか答えはないんだと思います。
そう思うと どう感じたか 何を掬ったかで他人のことを窺い知れるのは面白い
紅子さんがおっしゃるには「内面に渦巻く感情や決意、母性…そのすべてを背負い、強く生きたいという意志。その意思の形」だそう。
人生色々あっただろうな。
私もか。
白黒も好き。無機質で。
余談ですが実は 石膏像を描くのも人形の絵も描くのも好きだけど 生身の人形は苦手です
何故人形が苦手かというと 昔母に「面白い映画があるよ」と当時5歳くらいだった時に見せられたのが「チャイルドプレイ」。
チャッキーが機械のファンで四肢粉砕されてズタボロになったり 顔がハゲて血みどろになったりしたのを当時見て それ以降人形を見ながら食事が出来なくなりました。お肉を食べたら人形の肉に見える。チャッキーの肉が口に広がる気がするため…同じ空間に人形があるのもダメになったから という それが人形が苦手な理由です。
チャッキー、あいつは自分から人形に乗り移ったくせにまた人間に戻りたいなんて傲慢すぎる、だから肉だるまにされるんだよね。本当にムカつく。
話はそれましたが その点石膏像ってとても無機質でいい感じ。チャッキーみたいに肉もはげないし。しっとりした優しさではない あくまで静かに佇むだけの優しさ。
他人に寄り添うこともなくただそこにあるだけ。清潔感があって、何も乗り移らない。魂も何も。心もない。壊れてる
欲を言えばツルツルして何も割れてないものより 少し欠けたり割れたりしてる石膏像の方が生き生きとして見える
石膏をデッサンする時は 紙の上で石を彫るようなイメージでやります。(他の人は知らん)彫刻家さんの石膏デッサンは石の質感 欠けた細部さえもとっても綺麗なものが多い 石を愛してるんだなって
人間もそう。欠点や欠片がある方が面白い。どちらかというと何かが欠けている人の方が 印象に残る 欠点に贈り物が詰まっている
よく、他人の弱さが受け入れられない人はいるね。他人にやたらと明るさだけ求める人は自分の心の闇を直視できない人です(暴言)
人生だって 色々あった方が面白いし 辛かった出来事も何もかもギャグにしたり。そしたら他人にも寛容になれるし。そういったひとつひとつで 物事の見方が一面的でないことを知っていく
紅子さんが掬い取ってくれたモチーフ 強さと母性と 過去や弱さとか いろんなものを感じれて面白い。改めてコラボは楽しい。浮かび上がる二面性。
怖いのに 神聖とか 強いのに弱い とか 内面と外面、水色とピンクもそう。白と黒もそう。
相反するもの。
いつもそういうものを描きたいと思う
静かで壊れてて 綺麗なもの。光と闇。
半分良くて半分クソ。(最近気に入ってる言葉)
絵は 描いているうちに 光を描くには黒を強調しないと 光が際立たないことを知る そして白を使うのは眩しい。だけど白はハッとする 光は人間が本質的に求めているものだから
だから多くの画家は光を描こうとしたのかな そういえば「作品には光がないとダメ」とベンジーも言っていた。
誰しも 自分の中に光と闇が振り子のように傾いてると思うんだけど 例えば暗いものを見て落ち着くこともあり 明るいものを見て癒されることも 悲しすぎて明るいものを見れない時期も 人生色々あると思うので そんな揺らぎの中 何も否定しないような そんな無機質な優しさで寄り添える作品であってほしいです。
紅子さん、素敵な作品をありがとうございました。