わたしの大切な一冊:『母親になって後悔してる』

もてこ
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はじめに

この投稿は、私の一冊 Advent Calendar 2024によせて書いたものとなります。わたしは12月4日担当です。自分の記事に目を通してもらえるのは書き手としてもちろん嬉しいですが、別日の担当の方たちの書きものにも興味を持っていただけたらよりよい循環になってもっと嬉しいな、と思っています。

それでは、以下より本題に入ります。

親に向いていないわたし

2020年に出産し、わたしは母親となった。それからずっと、親に向いていないという実感とともに生きている。なぜそう思うのかを簡潔に言い表すことはできなくて、日々の子どもとのやり取りがわたしにそうだと突きつけてくる。人生苦あれば楽ありというが、子育てをしているとそれを顕著に感じる。ずっと苦が続くわけではない。でも、楽が苦を打ち消すわけではない。そして、苦の方が存在感が大きく、頭をずっと悩ませ続けることが多い。

オルナ・ドーナト著 『母親になって後悔してる』との出会い

この本を読んだのは2022年。子どもは2歳間近、夫の仕事に帯同して海外で専業主婦をし、日中は基本的に自宅でワンオペで子どもを世話している、という状況だった。

当時、子どもの発語がままならず、おそらく標準より遅れていることが気に掛かっていた。双方が理解できるコミュニケーションを取ることはできず、その状態を楽しむこともできなかった。その状態を少しでもよくするためにできそうなこと、例えばたくさん話しかけたり絵本を読み聞かせたりすること、にもそこまで積極的にはなれなかった。それは単純に、わたしのやる気が起きなかったからだった。子どもにたくさん話しかけるのも絵本の読み聞かせも好きじゃない。だからやりたくない。ただそれだけの理由だった。それをやって子どもの発語が100パーセント上達するというのなら少々苦手でもやっていただろう。しかし、不確実かつ好きでもないことをやることに前向きにはなれなかった。不安がっているはずなのに行動はついてこなかった。

このような、あるいは似たようなエピソードのひとつひとつが、前述したように「母親に向いていない」という自覚をより強固にしていった。だが、いくら母親に向いていなくても、ハイやめますと言って辞退できるものではない。じゃあわたしはどうすればいいのだろうか?自問自答を続けながら、親として細い糸の上を綱渡りするような日々を送っていた。SNSを眺めていて、この本の表紙とタイトルが飛び込んできたのはそんな時だった。興味を引かれ、すぐに購入に至った。

本書について簡単に説明する。「母親になりたくない」と考えるイスラエルの女性社会学者の筆者は、母になった後悔を現在まで持ち続けている23名の女性にインタビューをする。その内容と伝統的な価値観や社会的通念を照らし合わせ、検証してまとめたものが本書である。書かれ方の経緯から全体的に論文調で堅苦しく、回りくどく感じる表現もある。けして読みやすい文章とは言えない。だからこそ、流さずに咀嚼する時間が半強制的に与えられるとも言える。立ち止まったり反芻したりする時間が、より深い思考へ誘うトリガーとなる。

母親になったことの後悔と、子を大事に思う気持ちは両立しうる

シャーロット:私は母になったことは後悔していても、子どもたちについては後悔していません。

本を読み進めながらたくさんの箇所にマーカーを引いたが、1人の研究対象の女性の言葉が特に心から離れない。わたしにとって彼女の言葉は、そのような心のあり方があってもよいという気づきとゆるしだった。

母親に向いていない。母親をやめたい。そう思ったことは数えきれないほどあるが、子どもがいなくなればいいのにと思ったことは一度もない。母親になった自分に対する後悔はあっても、子どもの存在に対する後悔はない。

他にも似たような内容を違う言い回しで述べる研究対象の女性たちがいる。一見両立不可能な感情だが、確かにここにあるし、あってもいいことを彼女たちが教えてくれた。自分はひとりではないのだと、ほのかな心強さが胸に灯った。

母親としての後悔は、社会的な母親像あってこそのもの

自分が常日頃感じている「母親に向いていない」とはそもそもどういうことなのかを問い直す機会にもなった。

この不向きさを感じる根底には、社会から求められている(ように感じてしまう)母親像の影響が少なからずあるように思う。子どものために尽くすことのできる、優しくて、穏やかで、文句の一つも言わないで、……。わたしはことごとくその対極にいるような人間で、母親としてのマジョリティから外れたような劣等感を抱えていた。しかしそもそも、本当にその劣等感は必要なものなのだろうか。母として「劣っている」とは何なのだろうか。そもそも、理想の母親像とは何なのか。皆そこを目指すべきなのか。考えれば考えるほど、母親というものがわからなくなる。

本書では、母性愛という概念について触れている。そこでは、母性愛とはここ数百年の間に生まれた新しい概念であり、それが母親という存在に特定の義務を課す構造を生み出した、と述べている。これは、男性が外で働き女性が家事育児を担うような生活形態の中に母性愛という新概念が入り込み、女性をある種の檻の中に捉えるようになった、と解釈できる。

時代は変わり、家庭内の男女の明確な役割の差はどんどん薄れている。すなわち、家に女性を縛るための「母親らしさ」も今や大した問題ではないはずで、母親自身がそれで自分を縛らないことこそが重要なのかもしれない。

母性を役割や義務や職業ではなく、「関係」として捉え、話すことで、さまざまな母のシナリオが作成でき、筋書きのなかにもっと複雑で多様な女性の人生を織り込むことができるのだ。

子を持った瞬間から急激に、生活の中で『母親』として扱われることが増える。それは当然だし仕方のないことではあるが、だからといってそれまでの自分が失われ、母親という別の生き物として生まれ変わるわけではない。あくまでわたしはわたしのまま。様々な場面で、子どもの母親として結ばれる関係が増えただけだ。

後悔する母たちと手を取り合いたい

この本は世界中で翻訳されている。それだけ読まれてほしいと考える人が世界中にいるのか、それともこの題材に需要があると考えられているのか。本が翻訳される背景にはさっぱり詳しくないが、世界中に同じ本を読んだ母たちがいるはずで、その中には母としての後悔について身に覚えがある人もそれなりにいるだろう。本書の中でインタビューを受けた23名の母親たちのみならず、世界中の後悔している母親がわたしに勇気をくれる。こんな感じの母親でも大丈夫だと。役割としての母親を演じなくても、わたしはわたしの心のままに生きていてもよいのだと。

良い母親のレールにはこれからも乗れそうにはないが、そういう自分でもできることをやっていくしかない。たとえ不出来だったりみっともなかったりしてもそのような姿をさらしていくことが、大げさな言い方にはなるが誰かにとっての救いになるかもしれない。姿の見えない母たちに自分が励まされたように、わたしもまた自分の知り得ないところで誰かの手を取ることができていたらいいなと思う。