思い返せばこれまでの人生で、寂しいという感情を誰かに打ち明けたことなどほとんどなかった。
(中略)
実際、こんなことを言われたところで久瀬も困ってしまうだろう。重治が寂しさを感じていたのは過去のことで、久瀬が隣にいる今はもう払拭されている。お互い仕事が忙しくて会えなかっただけで、久瀬が何か悪いことをしたわけでもない。
単に自分の不満を聞いてほしかっただけなのだから、本当に甘えきったセリフだ。
(海野幸『社長、取材を受けてください! 社長、会議に出てください! 2』)
これはBL小説からの引用で、語り手となっている男性が交際相手に「会えなくて寂しかった」と言った後でそれについて自ら考察するシーンだ。「寂しかった」のは過去のことで、今は会っているので寂しさはなくなっている。だから「寂しかった」というのは単に過去の自分の不満であり、それを言うのは甘えである。これは小説の語り手の思考なわけだが、この内容が自身の思考をぴたりと言い当てていて、ぶわっと突風が吹いたかのような衝撃を受けた。うまく言語化できていなかったことだったので、「え、あ、わたし、こういうこと考えてたんだ」と戸惑いを伴った驚きがあった。
恋人に「会いたかった」と思う時、そこには「寂しかった」も内在されている。友だちに「会いたかった」と思うのとは違う気がする。「会いたかった」の中に「寂しかった」もあるのは、理想よりも会えていないからではないだろうか。本当はもっと会いたいのに会えない、だから寂しい。友だちは、近所に住んでいるとか休みを合わせやすいとかそういう条件が整っていなければ頻繁に会えることはそうないだろうし、会えなくても仕方ないと割り切れる。だから寂しさが伴うことは基本的にはない。でも恋人は、基本的には密なコミュニケーションを求め合うような関係であり、それなりの頻度で会うことが普通だと自然に考えてしまう。だから会えないことが寂しさにつながる。
「会いたかった」または「寂しかった」と相手に伝える行為を、わたしは無意味に感じていた。そう気付かされた。BL小説の中の彼が考えるように、それは過去のことであって今は問題ないわけで、なおかつ解決策があったわけでもなかったのだから。しかし、そういうことをごちゃごちゃ考えずに「会いたかった」「寂しかった」と相手にまっすぐに伝えられる人が、きっと恋愛ごとには向いているのだろう。
わたしは、いつまで経っても恋愛関係にある人間同士のやることがよくわからないままだ。だから恋愛感情そのものもよくわからない人間だと自分を評価していた。でもおそらく、わたしの中に恋情はあるがそれを表出するための仕草がわからない、という方が適切だったのかもしれない。そして立場が逆になった場合も、仕草に対する応答もいまいちよくわからない。「会いたかった」と言われても「うん」とだけ言って終わってしまうような人間なのだ。「会いたかった」という感情を受け止めることはできるが、それ以上の何かを期待されても返せる自信はない。このようなオンチさのせいで、人生において何人かを傷つけたり悲しませたりしたはずだ。本当に申し訳ないと思うのに、それでもオンチがすぐ直ったりはしないのだから失望する。