甘い香りがする。顔を上げると、想像していた通りの小さな可愛いオレンジ色の花が咲いていた。
ちゃんと金木犀を認識したのはここ数年の話である。以前の職場へと続く一本道、そこを通る少しの間だけ独特の甘い香りが鼻に届いた。その度に、近くにトイレがあるのだろうかと思っていたのだ。金木犀はトイレの芳香剤の匂い。だって地元に金木犀なんてものはなかった。言葉で聞いたことがあったとしても、姿を知らないものはなかなか認識できない。ましてや、香りは言葉じゃわからない。だから秋になると毎日感じていたその香りが、噂に聞く金木犀だなんて思ってもみなかったのだ。
香りの正体を知って数年、今年初めて金木犀のハンドクリームを買ってみた。甘やかで、爽やかで、どこか紅茶のようなそんな香り。 感じるのはトイレではなく確かに秋の、金木犀の、香りである。
手の甲に香る金木犀を感じるたびに、もう辞めてしまった会社に向かうあの細い一本道を思い出す。確かに楽しいこともあったけれど、その成長のない気楽さがいつしか苦しくなってしまったあの場所。悪い人はいなかったけれど、なんだか会話が噛み合わなくて言葉を発するのも辛くなってしまったあの空間。ずっと何も変わらずにいると思っていたその場所の居心地がどんどんと悪くなった。多分変わったのは、会社じゃなくてわたしなのだ。金木犀を知らないわたし、金木犀をトイレの匂いだと思うわたし、金木犀のハンドクリームを買うわたし、金木犀に思い出ができたわたし。
一本道には、小さな踏切が横切っていた。一度閉まるとなかなか開かないその踏切に足止めされて、どうすることもできずにただ赤い電車を眺め続けるわたしと、わたし以外の知らない人たち。会話も何もないけれど、ただ金木犀の甘い香りだけを共有していたあの時間に、もう戻ることはない。