近藤聡乃さんの『一年前の猫』という本を読んだ。飼い猫との日々を軸に、小さなあれこれが綴られた可愛くて素敵なエッセイだった。どの章もとても面白く、幸せな気持ちで読み進めていたのだけれど、最後に収められた表題作『一年前の猫』が特にとても良かった。
(『一年前の猫』のネタバレがほんの少し含まれています)
曰く、このエッセイにはウソが混ぜられているそうである。まあ読んでいれば、なんとなくわかる。でももしわかっていないとしても、わたしにはなんの関係もない。作者自身、書いているうちに『どこからがウソだったのか今やわからなくなってしまった』と言っている。そんなものだと思う。そもそも過去の記憶なんて、大体本当のことではない。
日記を読み返してみると、一年前の今日のわたしは舞台を観に行っていたらしい。渋谷のシアターオーブの昼公演、グランドミュージカル初の最前列、全てが最高だった。触れるのではないかというほど間近に立っていたCHEMISTRYの堂珍氏と目があって、衝撃でしばらくぼーっとした。家に帰ってからパンフレットを隅から隅まで読み尽くし、余韻を楽しみ尽くした。ロビーで買ったキーホルダーは今でもわたしのカバンの中にはいっている。
さらに一年前の日記を読み返してみると、楽しみにしていた舞台の中止が発表されていた。夜中の3時に急に目が覚めて何気なくTwitterをみたところ、そこで中止を知ってしまったのだ。コロナ禍でたくさんの舞台が中止になった。仕方のないことだと思いながらも、悔しくて悲しくなってしまった。悔しくて悲しかったはずだけれど、日記を見る今の今までそんなことすっかり忘れていた。
その一年前はまだ日記をつけていなかったから、何も思い出せない。
その一年前もその一年前もずっと何も思い出せない。
舞台を見た日に起きたことは舞台を観たことだけではない。朝少しだけ寝坊したとか、腰が痛かったとか、猫が撫でさせてくれなかったとか、多分何か嫌なこともあったのではないだろうか。でも、覚えていない。上演が発表されて楽しみにして、最前列のチケットを手にしたのが震えるほど嬉しくて、間近でみたステージに泣きながら感動して、大切に大切にグッズを使い続けて、その日だけじゃない沢山の記憶が、その日の楽しかった気持ちを補強し続けている。目が合ったことなど気のせいだったかもしれない。気のせいどころかあとからそう思い込もうとしただけかもしれない。でもどうでも良い。あの日わたしは目が合った。だからすごく嬉しかった。その気持ちが、楽しかったあの日を大切な過去として形作っている。そして何にも補強されなかった泡のような小さな出来事は、爆ぜてどこかに消えてしまった。
今日は雨の中、知ってる街の知らない場所を散歩した。正確にいうと、郵便局を目指して駅から離れた場所を歩いた。急いで送りたい手紙があったのだけれど、定型内で送れるか自信がなく、窓口で確認したかったのだ。でも祝日だから、少し大きめの店舗でないとやっていない。だからそれを目指して初めての場所を歩いたのである。途中、花の名前を冠した小さな図書館があった。それが誇らしいかのようにさめざめと降ると雨の下、真っ赤な花が体を揺らして踊っていた。大きな道路を横断しながら、走る車の先を見た。少し下り坂になったその向こうで、古い団地がじっとこちらを見ている。せっかくだから近くで挨拶したかったけれど、雨が強くなってきたからまたの機会にすることにした。道から少し外れた場所に、ハニカム柄の服を着た美術館が座っていた。見た目を見ても名前を見ても、なかに何を隠しているのか全く想像がつかなかった。きっと受付には粧した女王蜂が座っているのだ。駅に続く地下道の入り口を見つけたので傘を畳んで階段をおりた。この駅は何十回も使ったことがあるのに、地下道の存在は初めて知った。そんなに広くはないけれど、人はちらほらいるようだ。天井に何か貼ってあると思ってよく見ると、『安産祈願』と書かれたシールだった。どこかで新しい駅が生まれるのだろうか。健やかに育って欲しい。
今日のわたしは、今日のことを何も知らない。どの瞬間の今日が選ばれて、どの瞬間の今日が消えていくのかもわからない。今日という日そのものがなかったことになるのかもしれない。でももしも、もしもふと思い出すことがあった時には、楽しい日だったと思いたい。どうせほとんど消えるのだから、せめて残骸は楽しい今日であって欲しいと願うのだ。
初めての場所を歩くのは好きだ。雨が降っていたからあまりゆっくりはできなかったけれど、小さな冒険ができたようでワクワクした。嫌なこともあったらしいが、それは何も書かないでおく。