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ナルニア国物語 ライオンと魔女 C. S. ルイス作/瀬田貞二訳

 衣装だんすに隠れたらいつの間にか別世界にいて、そこで偉大な存在に自分を認められ、言葉を話す動物たちや空想上の生き物たちと共に悪い魔女や魑魅魍魎と戦って勝ち、その世界の王や女王となる。そんなあらすじだけを読んでも、10歳前後の子供を魅了するには十分な設定であろう。自分にとっての大切な一冊とは何かを考えたとき最初に頭に浮かんだのは、小学生のときに2セットめを買ってもらって学級文庫に寄付するくらい夢中になった、有名なファンタジーシリーズであった。このナルニア国物語は自分が思うより自分の中に一定のスペースを占めているようで、初めて銀座の街を訪れて、教文館ビルの看板に「ナルニア国」の文字を見つけたときの興奮をまだ覚えているし、映画化されたことを心から喜んで鑑賞しに行き、「コレじゃない」感たっぷりの作品に乾いた笑いが出たことも思い出せる。シリーズのどの作品を単独で読んでも面白いのだが、やはり最初に発行され、物語の世界観をわかりやすく示してくれる「ライオンと魔女」から読み始めるのがベストなので、私の一冊としてここに挙げておきたい。

 ナルニア国物語、そして「ライオンと魔女」の何がそんなに自分を魅了したのかをなんとか文章化するため、五十路を手前に改めて再読してみたが、ここだと限定するのはなかなか難しい。印象に残る場面を思い起こすと、主人公である4人兄妹の一人がヤギと人間の混じったフォーンにもてなしを受けるシーンで出てくる「油づけの小イワシ」であったり、悪のボスである魔女がダイヤモンドのように光るしずくを魔法で変えて宝石をちりばめたコップに入れる「甘いクリーム状の飲み物」であったり、ビーバーの家で主人公の子供たちが食べる「濃い黄色のバターの大きなかたまり(を塗って食べる)粉ふきイモ」や「(半時間前に取ったばかりの新鮮な)マスのフライ」であったり、食べ物ばかりである。もちろん私が食い気に溢れ過ぎているせいもあるだろうが、この作品ではそれらの食べ物がなぜか大変に色彩豊かに読み手に伝わってくるのだ。魔女はナルニア国を冬のまま閉ざしているので、物語において雪と枯れる木々とのモノトーン風景が続くのだが、そのぶん主人公の兄妹たちや味方の動物たちの周りがカラーでより鮮やかに浮かび上がるのであろう。もちろん、物語後半にて魔女の支配力が弱まる表現として大地が冬から春に急に変化する、その情景描写の色鮮やかさには素晴らしいものがあるが、前半における、生命力の象徴として食べ物や食事が効果的に使われている点は大きな魅力だと思っている。

 さらに、物語の中で偉大な存在として主人公たちの前に現れるライオンのアスランに言及せずには、この話を語れないであろう。最初にナルニア国物語7冊シリーズを私に贈ってくれた方(某団地に住んでいた際の学校同級生のお母様)が、本のあちこちで台詞に線を引っ張ってマタイ伝の何章何項というメモを書き入れていたほど、この物語はキリスト教の教えや聖書をベースにしているとのことだ。確かに「ライオンと魔女」には裏切り者が出てその身代わりにという展開が現れるし、イギリスの児童文学賞であるカーネギー賞を贈られたシリーズ最終作「さいごの戦い」なぞイスラム教らしき国と戦って最後の審判を受ける話だし、と実は聖書の色が濃いのだが、物語がファンタジーなおかげで説教臭をあまり強く感じなくて済む。この、説教臭としては薄いが確実に通奏低音として大音量で流れているキリスト教的な価値観や道徳観が、ライオンに威厳がある、また魅力的な存在である、という印象を違和感なく読み手に伝えるのだ。たてがみを切り落とされてなお美しく気高くなるアスランにこちらも一種の畏敬の念を抱かざるを得ず、そのような心の動きを呼び起こす点が、ナルニア国物語自体を際立った存在に押し上げているのかもしれない。

 と熱く語ったところで、うちの小学生の子供たちはこの本を手に取ってくれないのだ。読んで初めてわかる面白さを読まない人に伝える方法を、どなたかにぜひ伝授いただきたいものである。

追記:訳者の瀬田貞二さんがあとがきにて、ターキシュ・デライトなるお菓子を日本人に馴染みのあるプリンに置き換えたと書いている。大人になってからそれがTurkish delightとわかり調べたら、プリンとは似ても似つかないゼリー飴だとな。この辺り、だいぶ印象が変わるので面白い。また食べ物かよ!

2024/12/14 ※日付回って実際は12/15 「私の一冊 Advent Calendar 2024」企画に寄せて