そこに何かの跡がある人と、何も無い人

rimo
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被害を受けた話への、フォロワーさん達の反応を見ていて思うこと。

つらい体験をした人は、その事をずっと覚えているし何度も考えているから、そこに跡が残る。それは抉れた傷で、ぽっかり空いた大きな穴で、淀んで腐った沼でもあるけれど、沢山のものを受け止める大きな器にもなり、水を湛えた豊かな湖にもなり、その上に大きく高く築くための深い土台にもなりうる。そこから生まれたものを人に分け与える事も出来る。

多くの女性は男性から受けた恐怖や傷の跡を持っている。男性の多くはその跡を持っていない。その存在を意識した事すらないかもしれない。自分が与えた傷跡かもしれないのに。

傷を受けた跡には何かが残る。そこに何かがある人は、同じ傷を受けた人に反応する。何も無い人は、何も引っかからないし気にしない。他人に向かって、「気にしなければいい」とまで言えてしまう。今まで気にしないで済んできたから。

ひとつの話を聞いた時のほんの少しの反応に、その人が持っている跡とそこに積み重ねられた思いが見えることがある。何の引っかかりも無いまま、何も積み重ねてこなかった事が透けて見えてしまう事もある。

Twitterでもよく見かける「ちょっとした言動・行動で大きく失望してしまう話」は、ちょっとした反応から、その人に中に積み重ねたものや受け止める器や共鳴するものが無い事がわかってしまう事で起きる場合が多い。それはとても虚しくなる。何も響かないから。何も響かない事を見せつけられるから。

自分が同じ跡を持っていなくても、想像することは出来る。話を聞いていれば。話をしてくれる人は今までに沢山いた。そして今は、その話をしてくれる人が増えている。少しずつ状況が変わって、話せるようになってきたから。話してくれる人が増えると、ずっと前から沢山あったのに見えないようにしてきた事が表に出てくる。今までその存在を意識してこなかった人には、よくわからないし、受け止められない。都合がわるいから、向き合えなくて反応がずれる。その反応は、知っている人には簡単にわかってしまう。わかっていない事がわかってしまう。

……この先が上手く書けないのだけれど、その傷跡が分からない人は、そういう世界で育ってきた人で、そういう風に育つ事を求められたからで、それはその人の責任だけではないはず。その社会に適応して生きてきたわけだから。だからいつもここで、そっちの方向への考えが進まなくなる。そして、まずは傷を受けた側に寄り添う事を考えることになる。

傷つける側を何とかしないと、いつまでも生まれる傷は減らないはずなんだけれど。

人と人の間には、傷ついて回復しながら学んでいく事が沢山ある。傷つかないと人はなかなか学ばない。その傷を引き受ける姿勢があるか無いか。

@rimo
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