本当のことを書きたい、といつも思っている。
私が惹かれる「強い文章」というのは、本当のことが書かれた文章だからだ。
「本当のことを書く」とは、正直であることとは少し異なる。事実や感情をそのままさらけ出すというよりは、事実や感情をできるだけ素直に差し出すという感じだろうか。それなので、ほんの少しの嘘が混じっている場合もあるが、書く者がそれについて自覚的であるか、あるいは心から信じ切っている場合には、その文章は「本当のこと」になるように思う。
私と同じような気持ちの人が、世の中には何人もいるのだ。私は私にとっての「本当のこと」を書き続けたつもりだったけれど、それが誰かにとっての「本当のこと」と共鳴しているのが、なんだか不思議だった。
それらは完全にイコールではないはずだけれど、完全にひとりぼっちなわけでもない。私は私一人しかいないが、誰かと少し似ている、ということ。書くことでそのことを知れて、なんだか照れ臭い気持ちになった。
この本をどんな人に読んでほしいだろう、と考える。
「どうして自分は生きているんだろう」
そんなことを、ほんの数分でも考えたことがある人に、かもしれない。なぜ自分は毎日のように「死にたい」と思ってしまうんだろう、という問いは、裏を返せば、なぜ自分はそれでも生きているんだろう、という問いでもある。
「肯定も否定もせずに、ただ感情に寄り添ってみてください」
「『解決しよう』とおもわなければ、問題は問題ではなくなるんです」
「『過去』は変えられなくても、捉え直すことはできます」
「生きている限り、人と人は必ず何かしらの形で別れます」
「書いて、読むことで、私たちは何度でも出会えます」
「お守り」を感じながら生きていく
本田さんとの対話の時間は、やっぱり確実に私の中に残っている。彼女と交わした言葉は消えないまま、私を次の場所へと連れていってくれる。
「一人でも、独りじゃありません」
本田さんは最後にそう言った。きっと、こういうことなのだろうと思う。こんなふうに、私の中にはいろんな出会いが消えずに残り、支えてくれているのだろう。
過去は受け入れることで蓄積され、今の私を形作る。そして、未来が作られていく。今、私がそうしているように。
そういう過去や他者は「お守り」だと、本田さんは言った。
ここまで全て引用。
この本を人に紹介したくて、何度もTwitterに書いた。ここにも書いておく。あなたの存在や言葉も、誰かのお守りになっているかもしれない。