犬の短歌2023冬 #5 エッセイ4

rimoy
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昨年の秋ごろ、短歌を始めた。

軽い気持ちではじめたうえに、たいしたことをしていなくて、短歌をやっています、と言うのが申し訳ないほどなのだが、自分の心身のペースで少しずつ触れては楽しむことにした。

小学校5年生の時に、詩を作るという課題が出て、わたしは大変に苦労した。

まず何も言いたいことがなくて困った。クラスメイトや先生に、何を言えばいいのか、言ってもいいのか、なにはダメなのか、さっぱりわからなかった。仕方がないので、犬のことにでもしよう、こんなに好きなのだし、とでも思った。ところが、なんだかうまいこと言ったような言い回しも、なんだかいやだったし、だからといって、「いぬってかわいいね」では、そのままではいけないだろう。そういうことはわかってしまう。

言葉に対する忸怩たる、というような、なんともいえない愛おしさと、苦しさが両方ある。

言葉は不完全で、言葉にすると、何かがこぼれおちて、言葉にしたら、それがだいなしになってしまうことがあるような気がする。

それなのに、私はどうも言葉にこだわるところがあって、不完全だと思っているならそれなりの対処をすればよいものを、それもできずに頭の中で言葉をこねくり回して、その言葉の気障ったらしさに自分で嫌になってしまう。

いま少し大人になって、恥ずかしいとか、気障ったらしいとか、そういうことを思う前に、ぐっとこらえて楽しんでしまう、という技を少しだけ覚え、自分の好きだという気持ちを少しは受け入れられるようになった。

短歌や詩歌といった言葉の使い方は、言葉にするとこぼれおちてしまう、そのこぼれた方を拾っては言葉になおして、もう一回差し出してくれるような気がしている。

こぼれたほう、切れはしのほうというのはどちらかというと「全部」より「すくない端っこのほう」のはずなのに、不思議なことに、「ほんとのほんとうのとこ」を少しかすめられるような気持ちがしてしまって、私はそれが欲しい、それに、触れたい、と思う。