今日、面談があった。
昨日のプログラムで、将来のイメージを書いてみよう!というものがあったのだが、その中で私は二つの道があることに気づいた。
一つは、頑張って作業所なりバイトなりしてから就労移行支援へ、そのあと障がい者雇用で働く、私の目からはきらきらと輝いた、しかしいばらが這っているように見える道。
一つは、国のお世話になりながら無理せずB型やA型に通う道。その道は穏やかな波音が遠くから聞こえている。失うものが多く、穴ぼこがそこらに空いている。
ひとつめはみんなから期待された道。ふたつめは私の行きたい道。
よくわからなくて、プログラムの担当職員から面談を提案された。とりあえず乗ってみた。
そして、面談。私の担当は昨日の職員とは別の人だ。
まとめると、「主治医から不安を解消してから動けと言われている。だから、そのために過剰適応を減らしていこう」ということだった。
デイケアの私は「私」だ。女性としてふるまい、みんなの前で笑顔で、グループワークのリーダーも率先して引き受ける。どんな人とでも話せるし、困っている人に手を差し伸べる、完璧な「やさしいひと」だ。
家での私は、否、俺は、「俺」だ。いや、「オレ」の方が近いかもしれないが。不真面目で、独り言をぶつぶつ言うし、頭の中は空想の世界でいっぱいだ。部屋は汚いし、開封済みで食べきっていない飴の袋が四つも床に落ちている。性別もよくわからない。真ん中のような気がするが誰も知らない。他人の都合なんて考えやしない。俺が生きていければ、それでいいのだ。
この「私」と「俺」の乖離が激しく、常にストレスを抱えながら生きている。ストレスをスクイーズを握ったり、「大丈夫」と言い聞かせることでなんとか逃がしている。
家族の前では「私」を演じている。ひとりにならないと、「私」のスイッチは完全には消えない。逆に言えば、ひとりになれば「俺」が出てくる。大抵「疲れたーあー今日も頑張ったなー」と口が勝手に動き出す。それが合図だ。
「私」はおそらくひとつめの道に進みたい。しかし「俺」は、ふたつめの道に進みたい。未来のことでも乖離が起きてしまっている。
どうしたらいいのかわかんねーな。俺はテキトーに生きてけりゃそれでいいのに、社会がそれを許しちゃくれない。どうせ「俺」を見せたらみんなドン引くに決まっている。
特に、独り言はだめだ。中学生の時に気づいたのだ。俺以外、独り言を言ってるやつはいないって。だからずっといじめられてきたんだって。
外では独り言を言わない。もちろん、疲れているときにぽろっと出てしまうことはあれど、周りに注意されるほどではない。
生まれたときの性別が女だったのは不幸中の幸いだ。だって、髪を伸ばしていても変な目で見られないから。本当は、長髪の似合う青年になりたかった。
「私」について、なにかロールモデルがあるのかと聞かれたが、思い浮かばなかった。母親かもしれないが、なんだか違う気がする。「ないです」と答えて涙がぼろぼろと出た。なにもわからないのだ。俺は一体何に従っているのだろう?疑問は俺を責めるだけで、答えを出してくれなかった。
しかし困ったことに、俺を苦しめている過剰適応とかいうやつ、こいつの減らし方がわからない。
やさしさの線引き、とあちらでは書いたが、正直なにも脳みそじゃ理解していない。当事者の書いた記事の言葉をそのまま口にしてみただけだ。
どうしたらいいのかわかんないときは、とりあえず先生に丸投げする。先生!ちょうど明日会うじゃないっすか!よろしく頼むっす!
考えるのはもうやめにしよう。今日は元気がないから、執筆もしないし、アニメも見ない。音楽を聴いて、のんびりできることをしたい。なにもわからない。やっぱアニメ見るか。その間はなにも考えずに済むから。
いやしかし、面談中には「俺」という一人称について欠片も気づいていなかった。家での独り言はみんな「俺」なのだ。たとえば、「俺なにかやっちゃったかな……」とか、「俺のせいじゃないよな?」とか。(自責系多いっすね)
「無理しないでくださいね~」なんて他人に言っておきながら、一番無理していたのは俺だったんだな。そのことに気づけただけでも、今日は大収穫。ハーベストだ。
明日の診察でなにかヒントをもらえたら万々歳だ。今日はもう、のんびりしよう。