あることを批判し、それについて怒っていることに気づいた時、ひとつ持ちたい視点として、俺はどこまで本当にその物事に不満や憤りを感じているのか、というのがある。
物事の妥当性の低さに憤り、そのエネルギーのままを対象を是正せんとすることが、俺の人生にいい影響をあたえるかは正直微妙な場合もあると思う。
それ以上に、自分はその物事に、怒りのエネルギーをぶつけさせてもらっている、という見方の方がたぶん重要だ。
実は、なにか別のことでそもそも心に負の感情が溜まっていて、それのぶつけ先としていいところにたたきがいのある物事が出てきた、という話なのかもしれない。
あるいは、不満の感情が噴出し、それを実際の行動に載せてしまうことがあったとして、そもそも過剰に不満な感情が噴出するようなコンディションの心身になっていた、みたいなものの見方も可能だろう。
いずれにせよ、物事を正すのが俺の仕事ではない。なるべく無事に生きること、ほどほどにただただ生きていくこと、それが俺が俺の人生からもらっているお題であり、仕事である。
最近はそれを忘れていることが多い。どうしたものかなあ。