備忘録:ふんわりイデア論と社会

りり
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別所でもちょっとだけ書いてたのですが、重すぎ空中リプみたいになってたしそのお相手が深堀を望まない可能性があったため、想起させる一連の投稿は消しちゃったのですが、いろいろ考えてたら考えて浮かんだことを書き留めておきたくはなったので、練り直したものをここに残しておきます。あくまで概念・哲学の話に重きを置いた話を書いていくので、その件とはほぼ別件になると思います

テーマは「社会的な観点での『普通』とは何か」と言ったところです。これをプラトンのイデア論をわたしなりに噛み砕いた持論(※イデア論そのものではないです多分)でひもときたいと思います


前提として。イデア論とは「人は完全な事柄を無意識のうちに知っている」と考え、頭の中に浮かぶ「完全なもの」をイデアと呼び、そしてイデアだけでできた世界「イデア界」が頭の中にあるとする考えです

例えばきれいなマルを書いたとして、そのマルは手書きだから線がすこし歪だったりするわけで、世の中に存在するすべてのマルは同じように『完全なマル』ではないんだけど、我々は見たことがないはずの『完全なマル』を知覚できる……という具合

また物だけでなく、正義や美といった概念にもイデアがあるとしています

小難しい話っぽいですが、わたしはこれを「人間は無意識的に見たことのない理想像を感じ取っている」と解釈しました。なんなら、「ものごとを自分のわかる範囲での型に当て嵌めて感じ取ろうとする節がある」とも言えるかなとも思っています

子供の頃に哲学の入門書みたいなのを読んだときに知った概念で、大人になってから専門書を読んだりとかしてるわけではないので、違ったらすまんわたしはこういう解釈しちゃったとしか言いようがないんですが(ひどい)、プラトンのイデア論は子供のわたしにとても強烈な印象を与え、今なお考え方に影響を受けている気がします。ちなみに他に影響があるとすればニーチェです。こちらは大人になってから本も買い手元に置いています


イデア論とそれに対するわたしの解釈を書いたところで、『社会的な観点においての普通』について読み解いていきます

これ、どんなイメージがありますでしょう。普通に男女交際をして、普通に大学出て、普通に働いて、普通に結婚して、普通に子供をもうけて、普通に家を買って……と。それ全然普通じゃなくないですか!?わたしこれ全部ないじゃん笑

でも、例えば政府の想定する世帯の話を聞いてみたり、はたまたアニメの親キャラを見てみたりすると、彼らはこれらの驚くべき普通を結構な割合でこなしているようで……

挙げたもの全部でなくひとつだけだったとしても厳しくないですか?大学行くの、全然普通なんて言葉で片付けられる内容じゃない。働けるのだって、身体が満足に使えるからできること。結婚子育て、レズはスタートにすら立てないです

それでも社会は普通というとんでもね〜色眼鏡で他人を見ようとしてしまうのだ。これは普通という名ばかりの理想像だ

この社会規範『普通』は例えば少し前の時代の常識の後追いであったり、マスメディアによる影響力であったり、外側の、社会的に大きな影響力を持つ流れによってなんとなくの形を練られて植え付けられるものといったところだと思うんだけど、ここをつつきすぎると藪蛇案件になりそうな気もするのでほどほどにしておきます。要は周囲から影響を受けた高い理想の思い込みといったところだと思う


理想をもつこと、理想像をもつこと自体は悪いことではなく、それにより見える世界や立ち位置があるけれど。理想を理想と気付かず、理想でなければならないと自分や他人に押し付けてしまうのは、とても苦しいことです。何故ならイデアはイデアであり、現実のものではないから。理想は理想であり、実在性がないのだ

また、この普通という型がそもそも当て嵌まっていないという問題も起き得るでしょう。この場合がものすごくしんどくて、自分が(もしくは当て嵌めた対象が)とてつもなくハズレ者に感じてしまう。実際、厳密に言えば『ハズレている』のではなく『当て嵌め方が違う』が正しいケースになるのだけれど、ここを認められないとものすごくつらい。つらさの根本は存在否定だ。関係ない赤の他人であれば関わらなければそれで終わりなんだけど、相手が自分だと逃げ場がない


それではどうすればいいのか。答えは難しいが単純で、『当て嵌める理想像を自分で変えること』だ。シンプルな例だと、わたしはレズなので男と結婚して子供を産むという型に当て嵌めることはできない。なので、自分に当て嵌まる理想像を別途必要とする。それは例えばパートナーを自分なりに大切にすることだとか、できる形で支えるだとか、そういう型かな。例えば働けないのなら家でできることで家族を支えればいいとか。それすら厳しいなら、生活をすること自体・生活を味わう自分を、自分の理想像として仕立ててしまえばいいのだ

問題があるとすれば、いわゆる世間の目だ。これはその人の気質によってかなり難易度が違うと思うけど、上記でも書いた通り、人間は身勝手に自分の知る型に周りを当て嵌めて見ているだけなので、どうせわたしのことなど1ミリもわかるわけがないのだ。その上で理解してほしいラインがあるなら対話や説明が必要だし、そうでもないならそもそも気に留める必要がない。そしてどちらにも共通して言えるのは、理解を期待しすぎないことだ。相手の中に近似の型が生み出せなければ、見ることすらままならないのだから


多様性社会という昨今で、型だ型だと時代錯誤と思うかもしれないが、わたしは逆だと思います。型が少ないこと、それにより視界が狭くなったり押し付けになってしまうのが問題なのであって、そもそもいろんな無数の型を見ることができれば、そんなすれ違いは起きにくくなるのだ。だから人間は知識の探究をするし、自分の中で磨くのだ。それが現実的な多様性ではないかしら?と思います


こんなところかな……結論を言えば、「自分は自分らしくいることが、最も自分を救うこととなる」といったところかなあ

もしこれを最後まで脱落せずに読んだ方、すげえ!ありがとうございます!

@riririririry
オタクのオタクじゃない話 / 非オタ趣味と生活と闘病