希死念慮とはなんなのか

りり
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#病気のはなし

⚠︎つらいを文章で吐き出しています

あまり見ていていい内容ではないので、コンディションには十分注意の上で続きをお読みいただくかご検討ください。特に精神障害をお持ちの方にはあまりおすすめができません。絶対に調子の悪いときには読まないようにお願いします

心の調子が悪いとき、理由も理屈もなんにもなく、死にたいと思う。そこに論理的思考はたぶんない。ないけれど、漠然とずっしりした感情に潰されてしまいそうになる

また、それと似た感覚で、不意に「生まれてこなければよかった」というフレーズが脳に響き渡ることがある。今それ。この記事はそんな気持ちを持ちつつもがく一心で泣きながら書いている

どっかのSNSだと思うけど、「生まれてこなければよかった」なんて幼稚な発想で精神が未熟であるという旨の発言を見たことがあった気がする。詳細は忘れたし、直視しては毒だなと感じたので無理に思い出さない方がいいとも思っているけど。まあこれ一理あるというか、論理的ではない・建設的ではない、いろいろなアプローチで正しくはあるとは思う。でもこれは呪いのようなもので、もしかしたら子供の頃から染みついて離れない呪いなのかもしれないのです

わたしは長女なんだけれども、親が若くしていわゆるデキ婚で産まれた感じだ。授かり婚という言い方もあるけれど、親の親(つまり祖父母にあたる)には当時祝福されていなかったようだから、授かるなんて言い方は美化が過ぎるだろうね

両家は考えというか常識とするものがかなり違っていて、あまり仲がいいとはいえなかったんじゃないかな。今も親交ある母方の祖母からはあちらの家は非常識だとか、やるやる言ってたことやらなくて尻拭いをさせられたとか、そのくせいいカッコつけたがるとか、聞く限りは確かに非常識と感じるエピソードをよく聞いていた(こういうとき、片側だけの意見を聞くのはよくないけど、わたしから見ても父方一族はさまざまな問題行動があったと思うので擁護はできない。また、現在は両親は離婚している)

わたしは以前、いつだったかな……多分社会人なりたてくらいのタイミングだったと思うんだけど、その愚痴と、心身幼い子持ち夫婦でいかに自分が苦労し陰で支えていたかを聞かされていたときに「じゃあ無責任に子供作って結婚なんかしなければよかったのにね」と極力自然な笑顔を作り言ったことがある。きっと、そんなことはないって言って欲しかったのかもしれない。出生まわりを愚痴愚痴されるのはわたしの存在の否定にも繋がりかねない、そういう危険が見えたから。返ってきた答えは、「本当にね」だった。このやりとりはずっと心のどこかに棘として深く刺さっている。「生まれてこなければよかった」だ

これ、論理的に言えばわたしの存在が全部悪いなんてことはなくて、当事者の問題だからわたしが何も思うことはないというのが真なんだけど、感情として、血縁に出生を否定されてうれしい人はいないでしょう。親とも祖母とも正月には顔を出すくらいには関係を続けているし、表面上は良好だけれども、おそらく一生忘れないと思う。親に対する一生忘れない負の感情の話は他にもあるんだけども、話が逸れる上に扱う話題もハードなものが増えてしまうので今は触れるのをやめておく

「生まれてこなければよかった」過去の話をしたが「死にたい」今の話も少ししておくことにする

わたしが死にたいと思うとき、一番多いタイミングは「とても楽しいことがあった翌日」だ。今日もまさしくそうだけど

わたしは今、誰かに生かされている身だ。年金などの障害者を支援する制度で社会に生かされ、家計を支えるゆうへいやに生かされて、自分では生きるためのお金を工面することができない。悠々自適という人もいるかもしれないけれど、これはとてもつらいことだ。誰かを苦しめて、自分はのほほんと生きている

自分には快適に過ごしたり、何かを楽しむ資格はないと思う。そう言っていろんな購買を諦めようとしたりする度に、ゆうへいやからは「いいの!」と押し切られてしまう。実際にお金を出すゆうへいやから言われては何も言えない。だからなるべく買うときは買う、楽しむときは楽しむようにと思ってはいる……

でも、いざ楽しんで。めいっぱい楽しんで。その翌日にすごく希死念慮にとらわれるのだ。楽しかった、そう思っているのはずっとそうだけど、それはそれとして言語化しきれない自責みたいなものが負の感情、勝手に出る涙や希死念慮になって溢れてしまいがち

そうすると絡んだ糸が勝手についてくるみたいに、どんどん負の感情が心の引き出しから出てくる。今関係ない話も、本当にあったのかわからない話も、こぞって顔を出しては、呪いのフレーズをささやくわけです……

なんか、本当に生きていていいのかね?って不安になるよね。でも、死ぬのは痛そうなのが怖くてなかなかできないんだわ……いやだよね、痛いの。あとなんだか漠然と怖い。よくわからないけど、怖いよね。なんでだろう。わからない、それが死ぬということの根源的恐怖なのかしら。生きてる、は今してるからなんとなくわかるけど、死んだことないから死ぬのはよくわからない。だから、死は救済というフレーズが本当かわからない。本当の本当の本当に追い詰められたら、生きていることがわからない死よりもいやになって救済に昇華するのかもしれないね

さっき泣きながら夕方の最低限の家事をした。ペットが生きるためのお水を換えて、ゆうへいやが仕事で飲むお茶を仕込んだ。ささやかだけど、生きるという行為だと思う。なにもしたくない、気持ちがいうことを聞かなかったけれど、なんとか、家族の明日に対する行動だけはできた

社会保障は真っ当に享受していいもので、ろくに何もできない自分が生きる義務を受けることができる、理屈ではわかっているけれど。こんな自分を疎ましく、厄介に思う人も多くいるだろうというのもわかる。これはきっと貧困が生む負の連鎖が垣間見えているだけなんだけど、特に攻撃的なSNSなんかでは障害者を否定したり、生活保護受給者を糾弾したり、高齢者を疎ましがる人も見かける。非生産的な弱者は何故淘汰しないのか、強者とも弱者とも言い切れない五体満足な低所得労働者は何故食い物にされなければならないのか?という論法があるある。自分が生きるのに必死なのに、他人に施す余裕があるわけないよね。生きていてごめんなさい。わたしとしてもサクッと死にたいとは思っています。こんな状態なのに死ねずに楽しく生きているのはやはり甘えでしょうか。答えとしては貧困が、社会のしくみが悪いということになりそうなんだけど、難しい話だし心に余裕がない状態では何も判断ができないので、自分を呪う方向に向きがちです

なんかもう、よくわかんない……

今日はね、午前中までは割と元気だったんだけれども、午後になって急に感情が押し寄せて押し潰されてしまっている。自分自身が本当にわからない。怖い。助けてほしい。ああ、これが救済を求める気持ちか。でも自分の心の中の問題は自分で向かい合い続けるしかない。これはそういう病気だと思う……ちょっとね、他人の心を覗くことはできないから、一概に同じかはわからないけれども。双極性障害の診断を受けて10年くらい経ってるような気がするけど(記憶がもうところどころあやふやで……)、未だに上手に向き合えていないと感じる

これを書いているうちに、ゆうへいやからこれから帰宅する旨の連絡が来た。ひとりじゃなくなったら少しは気持ちがラクになるだろうから、それまでなんとか辛抱しよう……

いのち

ぬいたちは割とガチで心の拠り所かもしれない。いつもそばにいてくれてありがとう

@riririririry
オタクのオタクじゃない話 / 非オタ趣味と生活と闘病