思考にゴミなんてあるものか、と真っ先に思うような人間だったな私は。
そういうところからスタートしてしまうあたり。
まぁ別に変ってわけじゃあないと思うけれどね。
ああ、うるさいな。
同居人はいつも配慮をしない。
こちらが読書をしており、かつ音が苦手だということも熟知しておりながら、平気で大きな音で動画を流す。
その無神経さに何度も腹が立っていたのが一昔前。
いまでは何も思わなくなった。
呆れか諦めか。
併せて愛情を注ぐのも億劫になってくるものだ。
こうは言いつつも、最後の最後には、けれどやっぱり愛しているのだと思う。
同居人が背負う負の資産を肩代わりしようと思ったり、死へまっしぐらだったあの頃、終電に乗って助けに行ったり。
なんだか私らしくないなとも思う。
違う誰かの、言ってしまえば、目の前で困っている誰かをぱぱっと助けてしまうような、小説の中のヒーローみたいだとも思ってしまう。
決して私の物語ではないような気がする。
けれど現実は、とりもなおさず、私の行動が表出した結果に過ぎない。
だから私もまだ息をしているし、同居人だって動画を見て笑っている。
幸福の根源はおそらく些事に宿っていて、けれども私はそれを享受する覚悟が若干薄弱だとも思う。
その価値が自分にはなく、同時に幸福を遠ざけたがるような生き方しかしないからだ。
あれに溺れたら、きっと諦めてしまうもの、諦めなければならないものがいくつもある。
そのなかには、私が決して手放したくない大事なものも含まれていると思う。
人生において、幸福は敵である。
あれに甘んじてはいけない。
私が私であるためにも。
私が私の意思と選択で、私の人生を踏みしめていくためにも。
私はいち早くこの生活を破壊しなければならない。