映画『海の上のピアニスト』(The Legend of 1900)を観た。ものすごくよかった。(この記事は以降ネタバレを含みます)
大型客船の中で見つかった捨て子の赤ん坊は、生まれた年になぞらえて「1900」と名付けられ、船内で可愛がられて育つ。やがて彼はピアノ弾きとしての才能を見出し、船のなかで演奏するように。生涯一度も船を降りることがなかった「1900」の孤独が、主人公のトランペット奏者との交流を通して描かれる。ロマンチックで情感に訴えかけるような作品で、キーワードになっている「物語」という単語に見合った壮大さとこじんまりさをあわせ持つ作品でもあった。
すごくおこがましいことかもしれないけれど、わたしは「1900」に自分を、88のピアノの鍵盤に短歌を、重ねてずっと観ていた。
「有限のピアノの鍵盤」を「人間の無限の可能性」が奏でる。それは、定型という有限の決まりごとによって、人間の無限の詩の心が引き出されることに似ていると思う。行ったり来たりするだけの船の往来、それは圧縮と解凍を繰り返すだけの短歌のようだ。
もし船を降りたらピアノの鍵盤が無限に続く、それは耐えられない、と「1900」は言う。
わたしもそうかもしれない。一度は船を降りる決意をした「1900」がタラップを戻るシーンに、釘付けになった。短歌以外に、わたしも居場所があるだろうか。
いつもひょうひょうとした態度の「1900」が、誰にも理解してもらえない自分だけのさびしさをずっと抱え続けていたことに、恐縮しながらも共感する。わたしの歌も「素っ頓狂な言葉」と「根底の苦しみ」を両方持つ、と評されたことがあった。
大切なのは、彼がピアノと心中したのではなく、船と心中したということだと思う。
「1900」の居場所はここしかなかった。悲しいことかもしれないが、そのことをみんなは、美しいと言うだろう。ここしかない、という気持ちを、わたしも抱く。その心が美しいものであるとされることに、優しく抱き寄せられたような気分になる。
でもきっと、ほんとうは、わたしはここしかない、わけではないのだ。
生きてさえいれば、と思う。「1900」にではなく、自分に、思う。