最近、オタクとしての話も職場での話も含め、ものづくりについて考えることが多かった。
みんな色んなこと考えてるし色んなもの作ってる。自分はまだまだだな〜と思いつつ、自分の性質上熱しやすく冷めやすいからこれ以上の熱の入れ方したら多分死ぬ、塩梅が難しいな〜、みたいなことをだらだら考えたりしている。
創作って、正直、やってもやらなくても生きていけるものだ。
それを仕事にする人のほうがマレだし、仮にその手の業界に行ったって実際創作らしい創作の業務より、資料作ったり頭下げたり細かい整理とかデータ作りとか、関係ない仕事の方がずっと多いわけだし。
でも、メンタル壊して仕事も趣味の創作も出来なくなってた頃は、日々楽しいことはなんだかんだあったけど、なんか生きてる気がしなかった。
最近はえらく忙しいけど、生きてるなー!って気がする。
創作自体が楽しいのかは良くわからないけど、それが無いと生を実感できない生き物なんだな、自分は…というのはなんとなく知ってしまった。
今まで、バズったことがあるわけでもないし、とりたててめちゃくちゃ評価された経験があるわけでもないのに、そこまで「なにか作りたい」という気持ちになるのって不思議だ。
今は特に、多分誰にも求められてないんだよな〜、って思いながら描いてるのに楽しい。
そういうところを鑑みると、自分の創作意欲の主軸は承認欲求とかじゃないのか…と思う。
そりゃ承認欲求だってあるけど、それより義務感とか使命感とかを感じるほうが燃えるのはなんなんだろう。そこが締め切りという存在と相性がいいのかもな。逆に素直に承認欲求を求められる方が健全なんじゃという気になってきた。
多分、「作る」という行為も好きだし、それに附随する「考える」という行為がよりめちゃくちゃ好きだ。
で、「考える」がうまく「作る」に繋がって、ちゃんと意図が伝わるようなものを作れたり、考えてた以上のものが出力できちゃったりした時が一番興奮する。
折角考えたのに、うまく出力出来なくて意図が伝わりそうなものにならなかったり、なんなら言いたかったこととズレたものになっちゃったりするとすごく落ち込む。
結局一番むずかしいのは「伝える」ことなんだよなぁ。狙いが伝わったかどうか、も分からないし。
あ、感想の嬉しいポイントはそこかもしれない。「あ!伝えたかったことが伝わってる!」を実感できたら一番嬉しい。
でもこれは自分が頑張って伝わるようなものを作らないとそもそも始まらないやつだから、自分が嬉しくなるような感想をもらえるようなものを作らないといけない、って話になるんだよな。
前につくる人の会で、嬉しい感想ってどんなのよ?みたいな話題になったとき、うまく言語化出来なかったけど
わたしは「何が伝わったか教えてもらえたらすごく助かる。それが自分の伝えたいことだった時が一番嬉しい」なんだな〜。
で、後半は感想をくれる人の側がどうこう出来ることじゃないから、前半のところをお願いします!という話になるわけだ…!
でも自分が至らなくて後半が叶わなかったら多分しゅんとする、とかいうあまりにもお粗末な展開に……自分が頑張らないと誰も救われねえあまりにも厄介な人間になっちまった……
多分このへんがあんまり大きな声で感想欲しいって言えない理由なのかもしれない。いただいた感想で喜べるか自信がないんだ、めんどくせコイツ。
でも伝わってるかどうか自体はめちゃくちゃ知りたいから、私が喜ぶか凹むかとは関係なく感想はほしいっちゃほしいよな…。
などということを、酒を飲んだ帰り道にぼーっと考えていました。とりとめもないけど、頭の中を吐き出してみると気付きがあって楽しいね。