Twitterでもぼそぼそ呟いた内容だけど、長文でまとめてみたくてこっちにも。
私は何かしらの作品に触れる中で、「作者の意図」を観測することが本当に好きだ。
というのも、何をどう表現したかで、作者の考えていることに触れられたり、同じ感情を共有できたりすると思っているから。疑問のオタク、自分の考えていることを分解するのも好きだけど、他人の考えていることを分解するのも大好き。
だから、例えば、マリオでステージ上にコインが並んでいる時、「ここを通ってほしいんだな」と分かるから嬉しい。そんなとこどうやって行くの?!みたいな場所にあるコインを、ちゃんと正攻法のアクションで回収できた時が一番興奮する。
裏ルートがあることも、制作側もそれをある程度見越して作っていることも分かるけど、あえて変な遊び方をするのはなんとなく違和感がある。
ただ、裏側にも「恐らく意図的にこの隠しルートを作っているな?!」と思うくらいめちゃくちゃ気持ちいいルートがあったりするから侮れない。そういうのを発見した瞬間の脳汁たるや、もうなんか、すごい。
あと、カービィのボス手前で閉じ込められている敵がいると、「この能力で倒せってことよな!?」って拾っていくし、その結果「いやどうやって倒させるつもりだったんだよ!?」になるとそれを見つけたくてしょうがなくなる。
大味なゲームもそれはそれで好きだけど、ニンテンドーのゲームは特にそういう緻密な意図が多くて興奮する。
今勉強している悪魔学とか宗教まわりのことも、
聖書の内容とか悪魔の伝承そのものとかから読み解いていくよりも、それを取り巻く周囲のことから読み解く方が分かりやすかった。
「この地にはこういう宗教があって、でもそれに対抗するためにその宗教を貶める新たな物語として『あそこで神とされているヤツは本当はとんでもない悪魔だ』という創作を行い、それが徐々に民衆へ広まって世俗的なイメージを形成する」…みたいな感じのザックリした背景があると、私にとってはすごく呑み込みやすくなる。
人間の意図から理解を図るのがどこまでも好きらしい。
ゲームとか創作とかとは関係ないけど、食事におけるマリアージュの文化も好き。
お店によってプッシュしている飲み物が違うから、「ここのお店は、ワインに合う料理を出してるってことね!?」とか「日本酒の種類多すぎ!激推しってこと!?」になるとニコニコするし、実際料理と酒がめちゃくちゃマッチすると大興奮する。これを味わってほしかったっちゅうことね!?になる。
話を戻して、創作において意図を感じる場所には、「違和感」がセットで存在するものだと、個人的に考えている。
この「違和感」は、キャラの言動に現れる場合もあれば、単純に見た目でアレと思ったり、他のキャラや他の作品と比較することで気付いたり、フックになるポイントはまちまちだ。
それでも、発見した「違和感」から、具体的な「疑問」を生じさせて、それを紐解いて「意図」に辿り着く…というのが、私の一番好きな思考法なのだと思う。
だからこそ、その過程で見つけた答えが作品の外に広がってしまって、最終的に二次創作でなく論文の形をとりたくなってしまうこともある。
おそ松さんのチョロ松に狂っていた時は、「おそ松くん」を読み漁り、ツッコミの存在に違和感を感じた。「おそ松くん」にはツッコミは居ないが、「おそ松さん」にはツッコミが居る。その役割を大きく担うチョロ松のことを考えた時、ある気付きがあった。
「くん」においても、「さん」においても、チョロ松は常におそ松の隣に在ったのだ。「くん」の世界では、悪ガキ2人組として、積極的にボケたり騒動を起こしたりして、話の進行を担っていた。「さん」の世界では、おそ松の相方として、おそ松のボケにツッコむことで、これまた話の進行を担うことになっている。
この背景には、「くん」から「さん」への50年にわたる“笑い”の文化の変遷が関わっている。演芸ブームにより舞台が主流だった「くん」の時代は、ツッコミ役は必要なかった。「志村うしろうしろ!」に代表されるように、対話者は観客自身で良かったからだ。現在ではナンセンスコメディなどと呼ばれているジャンルが、普通の笑いとして存在していた時代だ。
対して「さん」では、必ず対話が画面の中で完結している。ナンセンス風の「ショートコント」のコーナーにも、必ずリアクションを取る観客役を担うキャラクターが居るあたり、とても顕著だ。
「おそ松くん」においておそ松とチョロ松は相棒であり相方であった。しかし、徹底的に「平成ナイズ」される中で、「おそ松の相棒」という立場と「おそ松の相方」という立場は両立しえないものになってしまった。そこで、チョロ松が担うこととなったのは後者だった…
という結論に、私は至っている。
もちろんそれは一側面にすぎず、回を重ねる毎にチョロ松もはっちゃけていって、最終的にそんな簡単な分類は飛び越えていくことにはなるので、この論だけで断じるのは軽率だが、
とにかくこういう「意図」を追いかける思考が私は大好きなのだった。
猫柳キリオも、ルーイン・ライトも、坂本十三も、これまでの過去の推したちも、基本的に気が狂ったように考えてしまう時は決まって「なんでコイツこんなことやってんの!?!?」があった。なんで?!が行き過ぎると怒りになってしまうため、私にも「怒り」のオタクの素養はどうやらあったらしい。
ただ、怒りのポイントはこゆきとはズレていて、
あちらは存在のあやふやさに対する怒りが主とのことだったけれど、私の場合は、意図があやふやだとガッカリしてしまうのでそれ以上沼れない。
逆に、意図はハッキリとありそうで、作中の役割も明確なのに、思考が全く読めない・理解できない・言動に対する違和感や疑問が多すぎる…と、パニックになってキレてしまう。なんなんだ私は。どういう立場なんだ私は。「お前の意図するところを晒せよ!!!!頼むよ!!!!わけわかんねーことすんのやめろよ!!!!!」が私の基本スタンスです。怒りでありながら懇願に近い。バカなんじゃないかコイツ?
あと、聖地巡礼に対する考え方の違いも面白かった。
こゆきは、「無意識」に関心が強いとのことで、存在(実在)していればもうOKだしそれ以上の関心はそこまで無いから、単にイベントとしては楽しいが聖地巡礼そのものには魅力は感じないらしかった。
私は反対に、聖地巡礼が大好きだ。聖地は作り手の呼吸を一番感じられる場所だから、この景色を見て、この飯を食って、この空気を吸って、どんなことを考えてあの作品を作ったんだろう?と意図を探る一端にしてしまっている。だからすぐ聖地巡礼に行きたがるし、現地で大興奮してしまう。あと、文豪系の作品と相性が良かったのもこの点だと思う。あれは聖地巡礼によって「キャラの元になった文豪が吸った空気に触れられる」ので、作り手の意識とキャラの意識とを二重に感じられたから…。
多分、原作でこの先描写がありそうな事象に対するスタンスも、この辺の関心ポイントの違いが作用してるんだろうなぁ。
こゆきは「この先描かれる=存在する」ことにとやかく言うことには違和感があるようだったけど、確かに上記のスタンスだったらそうなるよな、という気がする。
私は、「ここに提示されているものには、この先に繋がる意図があるはずだ」という超巨大フックをぶら下げられている状態なので、この先のことを考えずにはいられない。提示されているものが多ければ多いほど、広大な庭の中で宝探しをしているような感覚になる。違和感や疑問になるような要素が多ければ多いほど、涎がとまらない。これで私が導き出した答えが正解だったら、興奮しすぎて死んでしまうかもしれないし、不正解だったとしても意図を辿る手掛かりが増えるので嬉しい。わたしにとっての「怖い」は、提示されたものに対して自分がキャパオーバーを起こして失神するんじゃないかという怖さであって、あんまりマイナスの意味はない。
こゆきとここまで正反対なものの見方をしているとは知らなかったので、すごく対照的で面白いな~~と思ったし、こういうことを紐解くキッカケになったまちさんとの会話はすごく助かったし楽しかったなぁ~と思っています。
また創作の話がしたいな~~~~~!