Googleが公開したCMを非難する声があり、Googleは放映を中止した、というニュースを読んだ。
たしかに以下のように批判する記事も出ている。
対象のCMは以下。もしかしたらこれも消されるかもしれないけど、これだけニュースになった上で消えてないので消されないかも。
日本語の解説記事もあるので紹介。
一応ここにもCMの内容を書くと、陸上競技をしている娘がシドニー選手の大ファンであり、ファンレターを書くためにGoogleの生成AIであるGeminiに手伝ってもらう、というものである。
CMが炎上して取り下げられるというのは昨今よくある話なので今さら言及することでもないかとも思ったが、ただ今回は生成AIの話だったのでちょっと触れてみたくなってしまった。
結論から書くと、私は特にCMに問題を感じなかったし、むしろ批判している人を批判したくなった。
妄想を元に批判する人々
まず先に紹介した批判記事の内容を読んでみたが、なんだか根拠のない妄想がいろいろと書かれているなあという感想を持った。
TechCrunchの記事にある「アスリートの元に同じような文章が大量に届くだろう」という旨の記載について。たしかにあるサービスにおいてデフォルトの文体というのはある程度決まってはいそうである。とはいえ、そんなものが大量に届くということが本当に発生するんだろうか?親などの周りの人間が見た時点でそのままでは良くないというコミュニケーションがされないだろうか?ファンレターに限らずどこかで生成AIの出力をそのまま使うのは良くないと学ぶのではないだろうか?さすがに子供やその周囲の教育者を舐めすぎではないか?(そして百歩譲って未熟な子供たちがAI感のある文章を送るようになったとして、そもそもそれはそこまで大騒ぎするような問題なんだろうか?)
次に人間の独創性が失われコミュニケーションが均質化するという話について。いや、逆に生成AIに期待しすぎでは?かつてインターネットが登場したころ、インターネットがあれば人間の記憶は不要になるとか専門家は要らなくなるなどと言う人がいた。しかしインターネットが隅々まで普及した現代において、学校では歴史を教えているし、人は知識をつけるために本を読むし、さまざまな分野に専門家が存在している。生成AIもおそらく人類の文明としての語彙や表現力の多寡にそこまで大きな影響なんて与えられないだろう。AIがあろうがなかろうが、人は良い文章を読んで "良い" と感じるし、"良い文章" とは何かを考え続ける。単に "良い文章" を書くためにAIを使ったり、AIを進化させたりするだけじゃないだろうか。
結局、どちらの記事もありえない未来をでっち上げて怖い怖いと言っているだけである。
新技術への向き合い方
推測であるが、これらの批判の根底にあるのは、子供が生成AIを使ってファンレターを書いているのがなんだか嫌だ、という感情ではないだろうか。
この「なんだか嫌だ」という感情は、新しい技術や概念の登場によって常識や価値観が変化するときによく登場する。特に今回は子供が対象となっていたので余計にセンシティブになったと思われる。
これは昔からよくあることで、例えばテレビゲームをやると頭が悪くなるとか、インターネットは危険だとか、依存症になるだとか、今だとYouTubeやらSNSやら、子供の敵だと言われるものは昔から常に出てきている。
しかし、これらは本当に子供から遠ざけるべきものだっただろうか?たしかに悪影響を与える可能性はある。しかしそれは使い方次第だ。YouTubeやスマホに子供向けのモードが存在するのは、むしろ子供が使うために存在する機能である。インターネットはもはや生活のインフラであるので使い方を教えないといけないくらいだ。テレビゲームも完全に禁止するほうが悪影響だと言われるくらいになっている。いずれも良い使い方を模索し悪影響を最小限にしつつ最大限のメリットを得ようというスタンスである。
やや消極的な言い方をすると、技術の進歩や常識の変化は止められない。怖いからと遠ざけるのではなくどうしたら良い付き合い方ができるかを考えるしかないのである。
生成AIもすでにいろいろなサービスに組み込まれ始めている。iPhoneにローカルLLMが搭載されるということも発表されている。恐らくこの流れはどんどんと進むだろう。ゆくゆくはインターネットのように生活になくてはならないインフラともなりえる。使いこなせないことが時代遅れになる。そんな未来が待っている中で、生成AIは使うべきではない、などと言っている場合なんだろうか?
個人としても社会としても生成AIをどう使えばいいかということを考えていくべきであると思うし、まだまだこれからも出てくる未知の新技術に対しても私自身常にフェアかつなるべく前向きな目線で向き合っていきたいと改めて思わせてくれる出来事だった。