人工地震とかフラットアースみたいな陰謀論的なものもそうだし、ペンキを撒き散らす環境保護団体とかもそうなんだけど、根源的にはどれも「自分の存在価値を証明したい」ために「他者を否定」することで、自分が正しい、自分は理解している、周りはわかってない、周りは気づいていない、というスタンスを取ることで心の安寧を得ようとしているんだろうな、とぼんやりと感じます。つまりはストレス反応の一種。マウントによるコンプレックスの解消手段。
本来どういった価値観を持つかは人それぞれで、それを誰しも内面に持っているもので、それは自由であるべきですが、内面に留めてしまうと「自分の存在価値」が証明できないので、SNSなどの外に発信するし、価値観を押し付けたりマウント取ったりするんですね。そうしないと「正しい自分」になれないから。自分が正しいことを証明できないから。
特に陰謀論者は思考の起点が自己の証明にあるので、反論があっても基本触れないし、耳を貸しません。間違いを認めるということは自分には価値が無いという結論を認めることになってしまうからです。間違いを認められることのほうが人として認められるのですが、認められないのはこうしたロジックになっているからですね。だから情報が切り取りであってもそれで主張をし続けるしかないし、反論に対して耳を貸すことはありません。稀に反論をしっかりしている人もいますが、突き詰めていくとほころびのところでループ処理に入ります。
主張そのものは恐らくどれでも良かったんだろうと思います。タイミングの問題で、現実が上手くいっていない時に「隠されていた真実」「誰も気づいていない」「政府がひた隠しにしている」なんて言葉とともに”ある情報”に触れてしまうと、心が上手くいっていない現実を取り戻そうとして「いつも馬鹿にしてくるあいつもこの事実に気づいていない」「あの上司だってこの真実をしらなくせに」「政治家は何をしているんだ!」と心のなかでマウントを取って一時的な心の安寧を得る方法を覚えてしまいます。
そういった状況になっても現実が回復すれば一時の気の迷いとして自己回復処理が出来るのですが、現実が上手くいかないまま時が立つと、心のなかでマウントを取るだけでは足りなくなってきて、SNSで証明に走ってしまったり、身近な人間を巻き込んでしまうといった行動に出てしまいます。
一度行動に出てしまったらなかなか後戻りできません。恐らく薬物依存症のように治療が必要なスケールですが、当の本人も思考の起点が自己の証明だとは気づいていませんし、それがエスカレートしている状況だと客観視出来ないからこその状態なので、回復するのはなかなかに難しいのかなという印象です。このあたりは精神科の先生が詳しいと思います。
人種差別も同様で、こと日本人の場合は憎悪とかヘイトとか差別意識がどうとかではなく、根本的には自身のコンプレックスに起因します。まあ人種差別の根底には知らない(身近ではない)ものへの恐怖なんかもあるので一概にはいえないと思いますが。
ペンキぶちまける環境保護団体はちょっと違って、自己の証明であることは一緒ですが、ストレス起因というよりも承認欲求優勢で発芽したパターンだと考えます。環境保護というのは誰しもが否定しづらいデカい看板で、その看板を盾にして「目立つ」ことに主眼が置かれます。いきなり何の看板も背負っていない状態でペンキをぶち撒けると「ただのキチガイ」になってしまい「正しいことをしていない」ため「悪人」になってしまいます。そこで環境保護という盾を装備することで「正しさのための行動」という大義名分を得て、「環境保護の大切さを訴えるためにアピールしているだけだ」という主張することでヒーローになることが出来るというシステムです。
承認欲求が起因なら正規ルートで頑張るという道もあるのですが、この手の人達は努力をしたり、もっといえば仕事すらもしたくない人たちなのではと推測しています。手軽に承認欲求を満たしたいんですね。だからこそ環境保護という盾は金の盾なんです。
これが海外では環境保護が目立ちますが、「保護」ってつけばなんでもいいんです。守ってるという立場を簡単に取得できるので。「平等」とかもそうですね。「反対」でもいいでしょう。
本来保護したり平等を目指したりは大切なことですが、その内容が賛否両論になりがちだったり、首を傾げる内容が多かったり、実態が伴っていなかったりするのはこうした背景があります。要は隠れ蓑だし、救うべき相手は本人たちにとっては自分の主張に必要な材料でしか無いんでしょう。
敢えて具体例は示さずに書いていますが、これらは私個人の印象や考えでしかなく、どれだけ正しいかはわかりません。間違っている可能性は十分にあります。もし正しいのだとしたら、SNSの発達や核家族化が加速し、以前とは人との距離感も変わり、コミュニケーションの取り方も変わってしまった結果、安易に人の発言を否定したりできなくなってしまったが故に、怒られたり正されたりする機会が減ってしまい、そのせいでこうしたストレスから逃れられなくなり、成長機会を逃したまま自己責任の社会に放り込まれておかしくなってしまうという、ある意味で、あるいはある一面において昭和の頃よりもしんどい時代になってきているのではないかと思ってしまいます。誰も救ってくれない世界。
だから、ブルーアーカイブの世界はとても眩しく輝いて見えるんですよね。大人は子どもたちを信じ、前に進むことを見守る。そして子どもたちは自分たちの力で状況を打開し、勝利を得る。主張ではなく選択と行動で前に進む。選択と行動には責任が伴うけれど、大人は責任から逃げない。
ブルーアーカイブはいいぞ。