格闘ゲームについて

ruibee
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最近半年くらい遊んでいる格闘ゲームについて書こうと思う。

「格闘ゲーム」と「しずかなインターネット」という取り合わせは言葉としてすでに食い合わせが悪そうだが、しかし自分のケースについてはこういうところに書くのが一番ふさわしい気がしたのだ。

わたしはストリートファイター6という格闘ゲームをここ半年ほど遊んでいる。

総プレイ時間は200時間を超えており、格闘ゲームの単独タイトルとしては間違いなく自己最高にハマっているが、これが初の格闘ゲーム体験というわけではない。それどころかスーパーファミコンのストリートファイターⅡからはじまって、その時代ごとの流行った格闘ゲームはだいたい一度はさわったことがある。しかしそれはほとんどが1人用モードでコンピューターと戦ってエンディングを見るところまでで終わって、ゲームセンターで他人と対戦するという格闘ゲームのメインコンテンツにはたどりつかなかったのだ。

たとえるなら…何だろう。うまい例えが思いつかない。逆に「格闘ゲームを一人用でしか遊んだことがない」という概念のほうが他の何かに対して有効な比喩になるかもしれない。「一人用でしか遊んだことのない格闘ゲーム」みたいな距離感のものが誰の人生にもあるのではないか。

さておき、そうした自分がたまたまストリートファイター6に出会って、オンライン対戦で毎日どこかの誰かと対戦するようになった。

他人と遊ぶ格闘ゲームとはすなわち勝負だ。3分かそこらの時間ごとに、2人の対戦者の間に勝者と敗者という厳然とした断絶が生じる。

自分はもともと何においても勝ち負けや競争に対する頓着がうすく、それより自分の納得を優先する傾向が強いほうの人間だが、しかしそういう自分でも、格闘ゲームで負けると悔しいし、負けが続くと、他人と比較して自分には格闘ゲームのセンスがないのではと思って落ち込んだりする。

この感情の動きそのものが自分には新鮮で、発見でさえある。自分はそういうタイプではないとこれまで思っていたのは単なる程度問題でしかなく、そういうシステムの中に混ざればやはり人並みに競技的な感情を持つことがあるのだ。

そういう感情の浮き沈みを今は楽しみつつも、いずれバランスが崩れて自分が変わってしまうのでは、という不安もあり、しかしその不安や怖さもまた楽しみでもある。そう思えるのはストリートファイター6がゲームだから、それもよくできたゲームだからだ。

仕事のこととか人間関係のこととか生存のこととかはそうはいかない。バランスが崩れるとそのまま大変なことになる、と頭をよぎるだけで防衛的になってしまう。ただのゲームだから、敗北をただの純粋な敗北としてありのまま受け止め、勝ち負けにメンタルを動揺させられる自分を客観的にながめて観測できる。

自分は特に十代から二十代にかけて患った病気の影響で、できることはできるができないことはできない、という思い込みに長く囚われていた期間がある。その感覚から少しずつ解き放たれていると感じるようになったのは三十代に入ってからだ。自分は格闘ゲームを通じて、できないことを少しずつできるようにする、その過程で敗北や失敗や恥をかくことがあっても、人よりもずっと多くの時間がかかっても、もしかしたら可能かもしれない、できるかできないか予測困難だが、もしかしたら一回くらいはできるのではないか、一回できたとしたらまたできるのではないかと、漸進的変化というものの存在を信じ、小さな弱い生き物のようなそれに毎日餌を与えて養っている、ということをやっている感じがある。そういう意味では自分にとって格闘ゲームはリハビリテーションの側面があるのかもしれないが、リハビリテーションという語感からなんとなく思い浮かべるような義務感からは遠い。というか、義務感を感じないことが大事で、ただやりたいからやる、という気持ちでトレーニングモードを起動し、気が済むところまでやって止め、翌日は自然と昨日の内容を振り返り、じゃあ今日はこれやってみようか、となる、このサイクルがたぶん一番大事なのだ。

このことはたぶんまたここで続きを書くと思います。