朝、心斎橋から地下鉄で蒲生四丁目へ。
このあたりは大阪城が近くにあるという以外、あまり知らない。今回一緒に観戦してくれる友人たちと合流し、目的のはちふく文化GAMO-4に向かった。
会場は駅から歩いてすぐだったが、早く着きすぎたのでしばらく近所を散歩して歩いた。だいぶ前につぶれたビリヤード場、壁一面にパックマンの顔が描かれた倉庫、熱心におがむおばあちゃんのいる若宮八幡宮など、一見当たり前の住宅街のようであちこちに独特の表情が見える町だった。ブリュワリーやシャンプーの量り売りの店もあり、新しいことにチャレンジしている住人が多そうで、石すもうもそういう新しい試みなのだろうかと思った。

会場に戻ると人が増えていた。はちふく文化GAMO-4はふだんはシェアハウスとして人が住んでいるが、1階では今回のようにイベントも開催することがあるのだそうだ。
広くはないが吹き抜けになっていて、屋上からの自然光が差し込んでくる。石の撮影をするときはいつも光の加減が気になるのだが、この会場の真ん中に置かれた土俵への光の当たり具合はとてもやわらかくていい感じだった。
土俵、といっても実際にはふつうの木の長机で、正面に向かい合う椅子に出場者二人が座り、石すもうの取組が行われる。長机の横には行司が座り、全体の司会進行から、石にほどこす「おしめり」などのテクニックの実行役、そして勝敗を判定する役割まで、試合全体のコントロール役を果たす。
そのまわりを観戦者たちがぐるっと取り囲んで座る。観戦者たちはただ見ているだけではなく、試合そのものの結果を決める重要な存在だ。
石すもうは、まず対戦者2人が向かい合って座り、礼をして、じゃんけんで先攻後攻を決める。そして先攻は持参した石の中から一つ、これという石を机の上に置いて披露する。後攻はこれを受けて、同じく持参した石の中から一つの石を披露する。
行司は用意されたお盆に二つの石を載せ、観戦者たちの間を回覧させる。観戦者たちは石を眺め、さわり、どちらの石の方がよいと思うか心にとどめておく。その場の全員が石を見終わったら、行司はどちらの石が勝ちだと思うか、観戦者に拍手を求める。拍手が多かったほうの勝ちだ。拍手の音の大きさ、熱烈さなどは関係がなく、正確に人数をカウントすることもせず、あくまで行司の主観によって、どちらのほうが拍手が多かったかを判定する。もし行司が互角だと判断すれば、その勝負はドローになる。どちらか先に3勝した方の勝利となる。
今回はわたし(るいべ)を含めて6組の参加者がおり、ホストであるはちふくチームを含めて7組のトーナメントが行われた。
初戦は石泥棒チーム(チーム名)対るいべ。
先攻、石泥棒チームの初手はひらべったくざらざらした、ガザミの甲羅みたいな石だ。
お行儀のいいやりとりではなく、先制攻撃でまず一発食らわそうという相手の意思がひしひしと伝わってきた。やはりこれはただの石の鑑賞会ではなく、勝負なのだ、という実感がわいてくる。
私の応手は、白い卵形で、まだらに黒い模様が入っている石。内心では「ワカメおにぎり」と呼んでいた石だ。
二つの石がお盆に載って観戦者に見られている間なす術のない対戦者はとても緊張する。それをおもんばかってか、行司は対戦者に軽い話を振ってくれる。このタイミングで、勝負の最中なのに対戦者2人と行司の間になんとなく親近感が生まれた。
回覧が終わって、拍手による判定タイム。今回は自分のワカメおにぎりが勝った。
その後、同様に試合は続き、初戦は3対1で自分が2回戦に進むことになった。

2勝した時点で、自分の手持ちの中で一番自信のある石を出して勝負を決めに行ったのが結果的に功を奏した。格闘ゲームで言えばマッチポイントが見えたからゲージを全部吐いてリーサルを狙うようなものだ。石すもうの参加者にはいろいろなタイプがいると思うが、自分は試合になると完全に対戦ゲームの心理状態に入り、どういう試合運びをすれば勝てるかだけを考えていた。
1試合が終了してやっと心に余裕が生まれたので、会場で売られていたジンジャーサワーを飲んだ。しっかりと辛くておいしかった。
友人たちが祝福してくれたが、1人からは「いい石どんどん出しちゃってなかった?」と見抜かれる。そう、これはトーナメント制なので、勝ち進んだ場合は次の試合でまた石を出さなければならない。2回同じ石を出すことはルール上は認められているが、観戦者からの反応で勝負が決まる以上、新鮮味がないと思われるのは極めて不利に思えた。自分は一回戦負けだけはイヤだったので強いカードを初戦で切ったが、後のことは考えていなかった。次の試合では何をどう出すべきか、さらなる宿題が生じてしまった。
そうこうしてるうちにほかの試合も進んでいく。
対戦を見ていると、明らかにそれぞれの参加者の石の好みというものがわかる。
たとえば次の対戦者2人の石は、印象派っぽい色合いと自然に生まれた破調の形に重なるところが多く、石好きの中でもさらに石の好みが近そうに見える。
友人の1人は「あの2人は仲良くなれそう。というかなってほしい」と言っていた。
一方が水晶っぽい石を出したところで「おひかり」を宣言する。下からライトを当てて光の透き通り方を見せるテクニックだ。その狙いはすぐに誰の目にもわかった。そのブロック型の石には実はステンドグラスのような切れ目があって、光を当てる位置によって屈折の仕方が大きく変わるのだった。この大技には会場中がうなった。

自分も観戦者になって石を回覧するようになって分かったことだが、机の上に出された最初の印象と、目の前で手に持ってよくながめた時とでは、石の印象は大きく変わる。ぱっと見が地味な石の長所を見つけると、わかりやすくインパクトのある石よりもつい贔屓したくなるものだ。
行司は石を回覧する前に対戦者に「何かアピールポイントはありますか?」と毎回問う仕組みになっているが、この日はどの対戦者も何も言わないことが多かった。自分の考えでは、ヘタに「この石は○○に見える」などと対戦者が言ってしまうと、自分でそれを見つけた時のうれしさをスポイルしてしまう。どうしても語りたいバックストーリーがある場合はともかく、そうでない場合は石に語らせる方が良いように思えた。
それぞれの対戦者が、相手の出した石を見たとたんに「これは負けた」と言って悔しがるシーンも多かった。実際、対戦者からは相手の石はすごく良いものに見える。
たとえば言葉による表現なら、その場のアドリブなどで印象を変えることもあり得るかもしれないが、石は物体としての存在感が強いので、出された瞬間に、これは自分の手持ちの石には無い価値を持っているということを実感してしまう。
自分の石は大磯の照ヶ崎海岸というところで拾った石が多いので、ある意味どの石も照ヶ崎海岸の石の顔をしている。来歴をごまかせないのだ。当日の土俵の前でできることは、手持ちの限られたバリエーションの中で、どうにかこの場で照応関係の取れそうな石を選んで出していくだけで、あとはわたしが見出してない良さを観戦者たちがそれぞれの石に見出してくれることに期待するしかない。
石を選んでビニール袋から取り出して机の上に置く瞬間のドキドキと、回覧されている間のどうすることもできないまな板の上の鯉のような感覚はなんとも言えなかった。
休憩を挟み、4時間かけてトーナメントは終わった。自分は決勝戦まで進み、最後に3対2で負けて準優勝になったが、最後まで投げやりにならずゲームプランを貫けたという点ではやるべきことをできたという実感があった。
石すもうでは勝負が決まった時点でその試合で出された全ての石が机の上に並んでいる状態を「棋譜」と呼び、その記念写真を撮る。棋譜は一目見るだけで試合の過程を追体験でき、しかも2人の対戦者の異なる美意識が半分ずつ向かい合っている様子を一望できるという面白さがある。それぞれの石はその一戦に勝つために選ばれて置かれた石だが、1試合分のそれをまとめて見下ろすと、試合の流れという物語を表すという意味では具象的、かつ見た目としては意図せざる抽象絵画のような光景ができあがっている。

大会後、建物の吹き抜けの上から見下ろす形で、参加者全員の映った記念写真を撮った。後日見返して、この写真は棋譜とどこか似ていると思った。写真の中の一人ひとりの顔を見返すたび、自分はこの日の試合やその時のやわらかな光と空気感を思い出せる。きっとこれから何度もこの写真を見返すと思う。