なんとなくYouTubeを見ていたら、非日本語ネイティブの人に「詫び寂び」を説明するシーンに出会した。これを聞いていて、とてもなんとなくなのだけれど、自己受容に近いものを感じた。
自己受容とは、簡単に言えば自身のすべての側面 (よいところも悪いところも含めて) まるっと受け容れること。それはつまり、欠点や限界を理解し、愛情を持って接することにも繋がる。
一方で侘び寂びとはなにか。これはまた難しい話で、自分もかなり浅い理解しかできていないことを先に言っておきたい。
それっぽく説明するならば、「侘び」とは、不完全であることに美を見出し敬うことだ。不完全さに敬意を払うこと。また、「侘び」は物事や状況は一時的なものであり、次第に内面が表面に現れ出でてくるからこその美しさを見出すこと。
例えばひび割れた茶碗を金で繕う「金継ぎ」は、侘びと寂びを表している。割れた茶碗を完全に元通りにするのではなく、金で継ぐことで、あえて不完全であることを強調し、時代によって発生した綻びに美しさを見出す。
とまあ、知ったようなことを書いてみたが、つまりはこの「侘び寂び」を自身に適用することも自己受容なのではないかと考えた。あまりにも不完全な自分に敬意を払おう。そして自然にありのままに枯れてゆく存在だからこそ、自分は美しい。
とりあえずそう思うことにしたが、そうは問屋が卸さない。観察者と被観察者が同一であっては、その「不完全さ」を愛でることはかなり難しいと気付いた。だって、その「不完全さ」で損をするのは自分だからだ。
ひとまず自分の「不完全さ」について棚卸をしてみる、外見や性格もそうだし、怪我や病気だってそう。薬を飲んだり、眼鏡を掛けて、なんとか「器」らしく生活している人は大勢いる。これは「金継ぎ」かもしれない。
自分にはもう治らない病気とか体質がいくつかある。それってつまり、自分という器には「金継ぎ」できないような大きな傷が入ってるってことだ。もしくは器として作りだされたときから、もしくは器としての自我が芽生えた瞬間から「完全な状態ではない」ってこと。その傷がさらに大きくなったら、もしくは不完全な部分が露見したら、いつかは取り返しの付かないようなことが起きるのでは、と恐怖する瞬間がある。
しかしそれでも、自分は今、自分として、ちょっと変わった器として生活しているという事実がある。この世界には多種多様な器が存在していて、たぶんみんなそれぞれの美しさを持ち、それこそが侘び寂びなのだと思い込む。ちょっと変わった器だけど、自分が器だと言い張れる限り、自分は美しい器だ。なるほど、これはちょっといいかもしれない。
観察者が器として見ている限り、その器は器である。たぶんこれが、観察者と被観察者が同一であることのメリットなのだと思う。自分という器に、さらに大きなひびが入ったとして、そのときも、まだ自分を自分と認識できているのなら、多分それは「器」の認識を今よりも広く持つチャンスなのかもしれない。自分が自分自身を器として見ることを諦めない限り、その対象は器である。「器」が「器だったもの」と観察者が感じるその瞬間まで、器は器である。そしてその観察者は自分なのだから、「器」の認識を拡げることができるかもしれない。
結局、うまく整理はできていないけれども、その不完全な自分であっても、自分として生きようともがくことこそが、人間の侘び寂びなんだと思う。今はそう信じてみることにする。
出来ないことがある、どうしようもないことがある、仕方のないことがある。それでも自分として生きると言い切るとき、それでも私は生きると決めたとき、ほんとうに生命は美しい。