最近、「逆張り」についての記事を読んだ。その記事に対して、特段思うことはなかったのだけれど、そもそもこの「逆張り」という概念はどういうものなんだろうというところが気になった。
辞書を読んでみると最初に『株式などの取引で、人気がないときに買い、人気があるときに売ること』というようなことが書いてある。
なるほど、逆張りってそういう用語なのか。たしかに株式をやる人は投機的な理由から、そのような行動に出るんだろうな。逆張りは「トレンドに乗ってる」投資法だ。「人気がないうちに買い、人気が出たら売る」というのはとても理に適っている。仕入れ値より高く売れるだろう。
それとは別に、人間の心の動きで考えても、やっぱり理に適っているんじゃないかなと思う。人気がない、負けそうなほうを応援してしまう「判官贔屓」ってやつをやってしまうのが人間だし、逆に人気が出てきたバンドに冷めてしまうという現象に苦しむのが人間だ。
けっきょく、人間は何かを選ぶとき、その人生のどこかで「逆」に張りたくなってしまうようにできているんじゃなかろうか。
メインストリームに馴染めない「そっち」を選ばない人がいるからこそ、人類は課題を発見し、議論をし、それを克服しようとする。その中でさまざまな挑戦もあるし、悲劇もあるが、結果としてよりよい社会が築くことに繋がっている。見方がちょっと違う人、現状で満足しない人、そういう「そっち」を選ばない人がいるからこそ、人類は多様性を保ち、ここまで存えてきた。
「そっち」を選ぶ人に大して「単なる反発だろう」ということを言う人もいる。でも、出発点が単なる反発だったとして、メインストリームがそう感じさせてしまったことは誰も否定できない。そのメインストリームはその人の「何か」を満たせなかったのだ。そして、ある日とつぜん出会ってしまう。その選択肢を選ぶ宿命だったとしか言いようがない。
その選択に「意味がない」なんてことを他人が言うのは野暮だろう。
「もの」を選ぶとき、逆張りを目的にしている人なんていうのは、本当はいないんだろうな、と感じる。その人には、逆を張らざるをえない「何か」があった。そうでなければ、逆の選択肢を選び取ることなんてできないし、結果として本人が満足しているならそれでいい。
その「何か」は本人が説明しない限り、外側からは分からない。それは自身の抗えない衝動かもしれないし、あるいは周囲の期待かもしれない。実は打算的だったりするかもしれないし、本人にとってその道は強制だったかもしれない。とにかく本人が満足している限り、その「何か」を説明することにあまり意味はない。その人は、それを選ばざるを得なかった運命にあったからだ。
たぶん、このなんとも言えない、苦しくも誇らしくもある気持ちを「逆張り」っていう便利な言葉で糖衣して、本心を守っている。きっとそうなんだろうなと思う。